公議政体論の展開から大政奉還へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)
「王政復古 (日本)」の記事における「公議政体論の展開から大政奉還へ」の解説
詳細は「大政奉還」を参照 文久2年の時点で、当時外国奉行であった幕臣の大久保一翁(忠寛)は、「攘夷は得策ではなく、朝廷が開国を認めず攘夷実行を迫るならば、徳川家は政権を返上して諸侯の列に下るべきである」という大政奉還論を松平春嶽に述べている。参預会議が徳川将軍の権威を上に戴く体制だったのに対し、一翁の論は徳川家を諸侯と同列に置く形の公議政体論であった。これに春嶽やその政治顧問の横井小楠、幕臣の勝海舟(義邦)、海舟門下の土佐脱藩浪士・坂本龍馬などは感服しているが、幕府要人一般からは不興を買うものであった。 王政復古政変の直接の原因となったのは慶応3年(1867年)5月の四侯会議の設置とその崩壊である。雄藩側は公議政体への国政の移管を目指したが、将軍・慶喜の政治力の前に失敗し、大久保利通・小松清廉・西郷隆盛ら薩摩藩首脳は従来の公議政体路線から武力倒幕へ方針を転換した。ただし、この段階でも薩摩藩全体が武力倒幕で一致していたわけではなく、大久保らは国許の出兵反対論を抑えるため、岩倉具視を通じて討幕の密勅の降下を求めた。 しかし将軍慶喜は、ここにおいて土佐藩の建白を容れ、10月14日に大政奉還を上奏し(翌15日に勅許)、260年以上にわたって幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。慶喜は幕府体制の行き詰まりを自覚し、天皇の下に一元化される新体制において自らが主導的役割を果たす道を見出そうとしたといわれる。
※この「公議政体論の展開から大政奉還へ」の解説は、「王政復古 (日本)」の解説の一部です。
「公議政体論の展開から大政奉還へ」を含む「王政復古 (日本)」の記事については、「王政復古 (日本)」の概要を参照ください。
- 公議政体論の展開から大政奉還へのページへのリンク