公議政体の模索
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「王政復古 (日本)」の記事における「公議政体の模索」の解説
佐久間象山、横井小楠といった人々の間では、情緒的・短絡的な鎖国攘夷は通用しないが、かといって幕府の弥縫的姿勢による開国では西洋と対等の外交、通商関係は望めず、先進的な産業や技術を導入して経済力、海軍力を蓄え、国力、制度を整備する必要があると認識されていた。その実現のためには譜代と幕臣に国政が独占されている従来の体制を変革し、より広く人材、意見を取り入れる仕組み(公議政体)を求める声が、諸藩、在野の開明派論者や一橋派諸侯のみならず幕府内からも上がっていた。 長州藩では長井雅楽が航海遠略策において開国通商による国力養成・海外雄飛を提唱し、一時は藩論に採用され、さらに幕府老中・安藤信正、久世広周らもこれを支持した。ただ、長井の思想は体制変革等の具体的方策にまで及ぶものではなかった。やがて安藤、久世が坂下門外の変で失脚、長州藩では久坂玄瑞ら尊攘派が勢いを盛り返し、その工作によって朝廷からも長井の説は退けられてしまう。 文久2年(1862年)4月、離京する長井と入れ替わりに薩摩藩の島津久光(藩主・茂久の父、前藩主・斉彬の弟)が藩兵千名を率いて上洛した。薩摩が目指したのは、かつて一橋派の試みた親藩、先進外様雄藩が国政に参加する体制、かつ朝廷・幕府の二元体制の統合であった。この頃、京都は和宮降嫁に刺激された浪士が集まり長州藩も活発に工作を行うなど尊攘派の勢いが増して不穏な状況となっており、朝廷は久光に浪士鎮撫の勅命を下した。久光はこれに応じ、寺田屋騒動で自藩の尊攘過激派をも粛清して信頼を得ると、幕政改革案を朝廷に提示する。これに基づき改革を命じる勅使が久光とともに江戸に下り、幕府は文久の改革を実施するに至った。徳川慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任し、従来は幕政に参画する立場になかった徳川一門の両名を首脳に据える体制がまず発足した。 文久3年(1863年)八月十八日の政変で、薩摩藩は京都守護職の会津藩と同盟を結び、長州藩および三条実美ら尊攘派公卿を京都から一掃する。朝廷は、島津久光、徳川慶喜、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂ら開明派諸侯に上洛を命じ、これを受けた諸侯は年末にかけて相次ぎ入京。久光は、諸侯合議による公議政体の設立に協力を求め、春嶽、宗城、京都守護職・松平容保らもこれに賛同する。朝廷はこれら諸侯を朝廷参預に任命し、朝廷会議に参加させることとした。また、翌元治元年(1864年)2月に将軍・家茂が上洛すると、参預諸侯は老中部屋への参入も許された。ここにはじめて、天皇と将軍の下に一元化され、親藩・外様雄藩が合議する公議政体が発足した。
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