公議政体の模索とは? わかりやすく解説

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公議政体の模索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)

王政復古 (日本)」の記事における「公議政体の模索」の解説

佐久間象山横井小楠といった人々の間では、情緒的短絡的な鎖国攘夷通用しないが、かといって幕府弥縫姿勢による開国では西洋対等外交通商関係望めず、先進的な産業技術導入して経済力海軍力蓄え国力制度整備する必要がある認識されていた。その実現のためには譜代幕臣国政独占されている従来体制変革し、より広く人材意見取り入れ仕組み公議政体)を求める声が、諸藩在野開明論者や一諸侯のみならず幕府内からも上がっていた。 長州藩では長井雅楽航海遠略策において開国通商による国力養成海外雄飛提唱し一時藩論採用され、さらに幕府老中安藤信正久世広周らもこれを支持した。ただ、長井思想体制変革等の具体方策にまで及ぶものではなかった。やがて安藤久世坂下門外の変失脚長州藩では久坂玄瑞尊攘派勢い盛り返し、その工作によって朝廷からも長井の説は退けられてしまう。 文久2年1862年4月離京する長井入れ替わり薩摩藩島津久光藩主・茂久の父、前藩主・斉彬の弟)が藩兵千名率いて上洛した。薩摩目指したのは、かつて一橋派試みた親藩先進外様雄藩国政参加する体制、かつ朝廷幕府二元体制統合であったこの頃京都和宮降嫁刺激され浪士集まり長州藩活発に工作を行うなど尊攘派勢い増して不穏な状況となっており、朝廷久光浪士鎮撫勅命下した久光はこれに応じ寺田屋騒動で自藩の尊攘過激派をも粛清して信頼を得ると、幕政改革案を朝廷提示する。これに基づき改革命じ勅使久光とともに江戸下り幕府文久の改革実施する至った徳川慶喜将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職就任し従来幕政参画する立場になかった徳川一門両名首脳据え体制がまず発足した文久3年1863年八月十八日の政変で、薩摩藩京都守護職会津藩同盟を結び、長州藩および三条実美尊攘派公卿京都から一掃する朝廷は、島津久光徳川慶喜松平春嶽伊達宗城山内容堂開明諸侯上洛命じ、これを受けた諸侯年末にかけて相次ぎ入京久光は、諸侯合議による公議政体設立協力求め、春嶽、宗城、京都守護職松平容保らもこれに賛同する朝廷はこれら諸侯朝廷参預任命し朝廷会議参加させることとした。また、元治元年1864年2月将軍・家茂が上洛すると、参預諸侯老中部屋への参入許された。ここにはじめて、天皇将軍の下に一元化され、親藩外様雄藩合議する公議政体発足した

※この「公議政体の模索」の解説は、「王政復古 (日本)」の解説の一部です。
「公議政体の模索」を含む「王政復古 (日本)」の記事については、「王政復古 (日本)」の概要を参照ください。

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