公議会論の系譜とは? わかりやすく解説

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公議会論の系譜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:54 UTC 版)

薩土盟約」の記事における「公議会論の系譜」の解説

約定書第3条には、大名藩主)で構成される上院と、藩士庶民から構成される下院想定した封建二院制論が呈示されている。これは議会制先駆論であるとともに封建制温存する手段でもあり、また大政奉還とともに幕末早い段階から大久保一翁横井小楠勝海舟らが唱えていた公議会論を初め政治的日程乗せた条文でもある。元治元年1864年9月勝海舟会談した西郷らは、その公議会論に大きく感銘を受け、全面的な賛意表していた。「共和政治」「列藩会議」とも称されるこれらの公議会論はしかし具体的な制度論としては幕末の政局の中でほとんど進展はなく、むしろ参預会議四侯会議など限定的な諸侯会議失敗終わったこともあって、抽象論段階とどまっていた。慶応2年には越前藩中根雪江小松帯刀対し大小議会2段から成る(大議会中央政治、小議会地方政治担当大久保一翁起源議会構想述べ小松賛同得ている。このような公議会論は、徳川将軍もまた諸侯一人として(ただし議長などの特別な地位を持つ)参加することを想定したもので、大政奉還論と表裏一体の関係にあった。勝から教え受けた坂本や、坂本影響受けた後藤もまた公議会論実現目標としていた。 薩土盟約第3条はこうした流れにあった公議会論を坂本後藤主導により、具体政治日程乗せたという意味で、議会史上画期的なものであったが、立法機関ないし諮問機関である議会具体構成謳っていたものの、行政機関想定欠いているのが弱点であった大久保一翁以来公議会論では行政機関従来将軍頂点とする幕府組織延長想定しており、後藤らもその線から外れるものではなかったが、薩摩藩将軍および摂関廃止を藩是としており、盟約書でも具体行政権の像をあえて記さないことで、表面出ない薩土両藩の溝渠糊塗していたといえる。のちに薩土盟約崩壊し武力倒幕なされた結果薩長主体とした新政府がいわば革命政権としての正統性獲得して有司専制官僚独裁)に至ったことで公議会論は大きく後退する後藤および土佐藩公議会論は明治7年1874年)の民撰議院設立建白書持ち越され薩長土妥協である翌年大阪会議経て立憲政体の詔書でようやく次の段階迎えることとなるが、この大阪会議体制それぞれの思惑違いから短期間崩壊し薩土盟約二の舞となる(詳細大阪会議参照)。

※この「公議会論の系譜」の解説は、「薩土盟約」の解説の一部です。
「公議会論の系譜」を含む「薩土盟約」の記事については、「薩土盟約」の概要を参照ください。

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