公議会論の系譜
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約定書第3条には、大名(藩主)で構成される上院と、藩士・庶民から構成される下院を想定した封建二院制論が呈示されている。これは議会制の先駆論であるとともに、封建制を温存する手段でもあり、また大政奉還論とともに幕末の早い段階から大久保一翁・横井小楠・勝海舟らが唱えていた公議会論を初めて政治的日程に乗せた条文でもある。元治元年(1864年)9月に勝海舟と会談した西郷らは、その公議会論に大きく感銘を受け、全面的な賛意を表していた。「共和政治」「列藩会議」とも称されるこれらの公議会論はしかし、具体的な制度論としては幕末の政局の中でほとんど進展はなく、むしろ参預会議や四侯会議など限定的な諸侯会議が失敗に終わったこともあって、抽象論の段階にとどまっていた。慶応2年には越前藩の中根雪江が小松帯刀に対し、大小議会の2段階から成る(大議会は中央政治、小議会は地方政治を担当)大久保一翁起源の議会構想を述べ、小松の賛同を得ている。このような公議会論は、徳川将軍もまた諸侯の一人として(ただし議長などの特別な地位を持つ)参加することを想定したもので、大政奉還論と表裏一体の関係にあった。勝から教えを受けた坂本や、坂本の影響を受けた後藤もまた公議会論実現を目標としていた。 薩土盟約第3条はこうした流れにあった公議会論を坂本・後藤の主導により、具体的政治日程に乗せたという意味で、議会論史上画期的なものであったが、立法機関ないし諮問機関である議会の具体的構成は謳っていたものの、行政機関の想定を欠いているのが弱点であった。大久保一翁以来の公議会論では行政機関を従来の将軍を頂点とする幕府組織の延長で想定しており、後藤らもその線から外れるものではなかったが、薩摩藩は将軍および摂関の廃止を藩是としており、盟約書でも具体的行政権の像をあえて記さないことで、表面に出ない薩土両藩の溝渠を糊塗していたといえる。のちに薩土盟約が崩壊し、武力倒幕がなされた結果、薩長を主体とした新政府がいわば革命政権としての正統性を獲得して有司専制(官僚独裁)に至ったことで公議会論は大きく後退する。後藤および土佐藩の公議会論は明治7年(1874年)の民撰議院設立建白書に持ち越され、薩長土の妥協である翌年の大阪会議を経て立憲政体の詔書でようやく次の段階を迎えることとなるが、この大阪会議体制もそれぞれの思惑の違いから短期間で崩壊し、薩土盟約の二の舞となる(詳細は大阪会議を参照)。
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