ウーグモン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:05 UTC 版)
「ワーテルローの戦いにおける奇妙な事実はこの戦いがいつ始まったのか確証できる者が誰もいないことである」と歴史家アンドリュー・ロバートは述べている。ウェリントンは公文書で「10時頃にナポレオンが我が軍の拠点が置かれたウーグモンに対して熾烈な攻撃を仕掛けてきた」と記録している。その他の史料は11時30分に攻撃が始まったと述べている。 ウーグモンの館とその周辺は近衛軽歩兵4個中隊、果樹園と庭園はハノーファー軍猟兵およびナッサウ軍第2連隊第1大隊がおのおの守備についていた。ジェローム・ボナパルトの第6師団が攻撃の口火を切り、麾下のボードワン将軍の第1旅団が突入して果樹園と庭園の守備隊を駆逐したものの、指揮官のボードワンが戦死する。ジェロームは騎馬砲兵の支援のもとでソワイエ将軍の第2旅団を投入して攻撃を続けさせるが、イギリス軍王室騎馬砲兵の曲射砲の砲撃を受けて進撃が鈍ってしまう。フランス軍砲兵が前進して対砲兵射撃によって英軍砲兵が制圧されると、ソワイエは兵を進めて館の北門を打ち壊して内部に突入した。フランス兵の一部は中庭までたどり着くが、イギリス兵に門を奪回されて閉じ込められ全滅してしまった。ジェロームは主攻勢前の牽制攻撃の役割は果たしたのだが、なおも攻撃を続け、フォワ将軍の第9師団までこの戦いに巻き込み、一方、ウェリントンも第2近衛歩兵連隊と第3近衛歩兵連隊の一部をウーグモンに送り込んだ。 ウーグモンでの戦闘は午後いっぱい続いた。その周囲はフランス軍軽歩兵によって幾重にも取り囲まれ、連携した攻撃がウーグモン内の部隊に仕掛けられた。英蘭軍は館と北へ通じる窪み道を守った。午後になってナポレオンは砲撃によって家に火をかけるよう命じ、その結果、礼拝堂を除くすべての建物が破壊された。国王直属ドイツ人部隊のデュ・プラの旅団は窪み道の防御に差し向けられ、高級士官を欠いた状態でこの任務を果たさねばならなかった。最終的に彼らは英軍の第71歩兵連隊(英語版)の応援を受けた。アダム将軍のイギリス軍第3旅団はヒュー・ハケット(英語版)のハノーファー軍第3旅団によって増強され、レイユによって差し向けられたフランス軍歩兵および騎兵のさらなる攻撃を撃退することに成功した。結局、ウーグモンはこの会戦の間中、持ちこたえた。 遺棄されたロイズ隊の大砲にたどり着くと、私は状況を視察するためにおよそ1分間ここに立ち止った。それは想像を越えた光景だった。ウーグモンとそこの木々は炎と戦場にたちこめる黒煙の中にそびえ立っていた。この煙の下にフランス兵たちがぼんやりと見えた。そこには揺れ動く長く赤い羽根飾りの集団を見ることができた。鋼の板の煌めきは重騎兵が移動していることを示しており、400門の大砲による砲撃によって双方に死者を出していた。怒号と悲鳴が区別つかなく混じり合い、これらはわたしに活動する火山を思い起こさせた。歩兵と騎兵の死体が我々の周りに散らばっており、そして私は視察を終えるべきと思い、方陣で踏みとどまっている我が軍部隊の方へ向かった。 — マクリーディ少佐、イギリス軍第30連隊、 ウーグモンでの戦いはもともとはウェリントンの予備兵力を誘引するための陽動攻撃であったものが終日の戦闘にエスカレートし、逆にフランス軍の予備兵力が消耗させられる結果となったとしばしば言われる。しかしながら、実際はナポレオンとウェリントンの双方がウーグモンの確保が会戦の勝利のカギであったと考えていたとする見方もある。ウーグモンはナポレオンから良く見渡すことができた場所であり、彼は午後の間中、兵力をこことその周辺に送り続けている(総計で33個大隊、14,000人)。同じようにウェリントンも、本来なら大兵力を収容することができないこの邸宅に21個大隊(12,000人)を投入し、窪み道を守り通せたため補充兵や弾薬を邸宅内の建物に供給し続けることができた。戦闘中、ウェリントンは敵軍からの激しい圧力を受けている中央部から砲兵隊を引き抜いてウーグモンを支援させており、後になって彼は「会戦の勝利はウーグモンの門を閉じ続けることにかかっていた」と述べている 私はこの拠点をここの背後に布陣していたビング将軍の近衛旅団の分遣隊によって占拠させ、指揮はマクドナルド中佐、次いでホーム大佐が執った。そして、大規模な敵軍がここを奪取しようと幾度も試みたが、これらの勇敢な兵士たちが最大限の勇気を示して、この日の間中、守り通したと付け加えられることを嬉しく思う。 — ウェリントン、
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