ウーゴの専横と王国消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/26 02:24 UTC 版)
「キスユラブルグント王国」の記事における「ウーゴの専横と王国消滅」の解説
ウーゴは盲目となったルイ3世に代わってキスユラブルグント王国の実権を得た。一方で、イタリアではユーラブルグント王ルドルフ2世がベレンガーリオ1世を倒してイタリア王となる事件が起きていた。ベレンガーリオ1世派だった諸侯はルドルフ2世を認めず、925年にはプロヴァンスのウーゴをイタリア王に選んだ。イタリア諸侯の要請を受けたウーゴは926年にイタリアへ進出し、ルドルフ2世をイタリアから追い払って単独のイタリア王となった。しかし未だプロヴァンス王であったルイ3世は、この隙に息子シャルル・コンスタンティンをヴィエンヌ伯につけた。ウーゴはルドルフ2世と組んだシャルル・コンスタンティンに対抗するために西フランク王国と結んだが、この策は完全に裏目に出た。シャルル・コンスタンティンの影響力を削ぐことができなかったばかりか、西フランク王国のキスユラブルグント王国への介入を許した。928年にルイ3世が死去したが、ウーゴもシャルル・コンスタンティンもキスユラブルグント王国の覇権を得ておらず、プロヴァンス王位は空白となった。932年にウーゴはイタリアでの王権を確保するため、ローマ教皇領の実権を握っていたマロツィアと結婚することになった。しかしその結婚式の最中、マロツィアの息子アルベリーコ2世にクーデターを起こされ、命からがら逃げ延びるという失態を犯した。ルドルフ2世とのイタリア王位をめぐる対立も未だに続いていた。ウーゴはキスユラブルグント王国を捨ててイタリアに専念し、皇帝位を目指すことを決意する。933年、ウーゴはルドルフ2世と交渉した。ルドルフ2世がイタリアに持っていたすべての権利を放棄させる代償として、ウーゴはキスユラブルグント王国を譲り渡すことになった。 こうしてユーラブルグント王国がキスユラブルグント王国(アルル王国)を併合し、プロヴァンス王位は廃止された。ウーゴは皇帝になれないまま息子ロターリオ2世をイタリアに残してプロヴァンスに隠棲することとなった。一方で、シャルル・コンスタンティンの娘婿ボソはアルル伯となった。さらにその子、つまりシャルル・コンスタンティンの孫であるルボー2世、ギョーム1世はアルル伯を改称したプロヴァンス伯となった。結局はボソとルイ3世の血統がプロヴァンスを統治し続けたのである。
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