共和国時代、王政復古後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 08:36 UTC 版)
「独立派 (宗教)」の記事における「共和国時代、王政復古後」の解説
国務会議議長、ニューモデル軍副司令官(後に司令官)として軍と独立派で台頭したクロムウェルは平等派の再度の暴動を鎮圧、続いて王党派のアイルランド・スコットランドをそれぞれの遠征(クロムウェルのアイルランド侵略・第三次イングランド内戦)で平定、1651年のウスターの戦いで内戦に終止符を打った。しかし保守派が主流になったランプ議会はクロムウェルら軍と対立し1653年4月に解散、7月にクロムウェルは第五王国派や独立教会などの協力でベアボーンズ議会を召集したが、12月に解散し軍の後押しで護国卿となったクロムウェルの下で護国卿時代が開始された。独立派はグッドウィン、ナイがジョン・オウエン(英語版)らと共に護国卿政権に協力したが、従来からの議会と軍の対立が政争に発展していった。 独立派はクロムウェルらと結びつき、側面から革命を支援した。従軍牧師として革命にのめりこんだピーターはしばしば説教でニューモデル軍兵士や議員達を鼓舞、長老派論客と討論して独立派の立場を弁護したり、チャールズ1世処刑を正当化する説教を行い独立派を後押しした。また共和国の下で公職に復帰したグッドウィンも宗教政策でクロムウェルに協力、オックスフォード大学モードリン・カレッジの学長に任命されオウエン、ピーターと共にサヴォイ宣言を起草、独立派の勢力拡大に尽力した。 だが、1658年にクロムウェルが死亡すると独立派の運命も暗転する。1660年の王政復古でピューリタンに対する反動が起こり、国教会が復権して再びピューリタンへの弾圧が行われたからである。グッドウィンとブリッジは公職追放、ピーターは王殺しではなかったがチャールズ1世処刑裁判を積極的に賛成したことをとがめられ処刑、クラレンドン法典制定で独立派は弾圧され衰退した。 以後は会衆派教会を参照。
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