カエサルとの対決とは? わかりやすく解説

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カエサルとの対決

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 16:32 UTC 版)

マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事における「カエサルとの対決」の解説

紀元前56年3月ローマへ戻ったカトは、その年に三頭の間で行われたルッカ会談ポンペイウスクラッスス紀元前55年執政官に就くと密約したのに反発して、妹ポルキアの夫であったルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス執政官選挙擁立した敗北。しかし、翌年執政官選挙紀元前54年度)では三頭政治側の候補破ってドミティウスが当選しカトプラエトル法務官)に選出された。この頃より徐々に三頭政治側の繋がり弱まりつつあり、紀元前53年カルラエの戦いクラッスス戦死したことで名実共に崩壊したカト反カエサル旗頭としてポンペイウス徐々に接近し紀元前52年にはクロディウス暗殺され混乱状態に陥ったローマ治めるために、ポンペイウス単独執政官に就くように要請したカト紀元前51年執政官選挙立候補したものの敗北した猛烈な贈収賄選挙違反横行した選挙であったが、カト正々堂々選挙戦戦った。但し、これがカトにとって最後執政官選挙への立候補となったカエサルガリア総督として任期が切れる紀元前49年執政官選挙任地から立候補できるように元老院依頼があったが、カト元老院派カエサルが軍を全て解散した後でなければ認められない伝えたカエサル1つ属州2つローマ軍団まで削減する譲歩しポンペイウスキケロらはカエサル意向沿った内容での落ち着きどころを見出そうとしたが、カトはドミティウスやその年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスと共にこの譲歩に対して激し批判浴びせ元老院として一切譲歩しない方針示しカエサル対すセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム決議したカエサル派の護民官らはローマから逃れざるを得なかった。

※この「カエサルとの対決」の解説は、「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の解説の一部です。
「カエサルとの対決」を含む「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事については、「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の概要を参照ください。

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