カエサルとの対決
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「マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス」の記事における「カエサルとの対決」の解説
紀元前56年3月にローマへ戻ったカトは、その年に三頭の間で行われたルッカ会談でポンペイウスとクラッススが紀元前55年の執政官に就くと密約したのに反発して、妹ポルキアの夫であったルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスを執政官選挙に擁立したが敗北。しかし、翌年の執政官選挙(紀元前54年度)では三頭政治側の候補を破ってドミティウスが当選し、カトもプラエトル(法務官)に選出された。この頃より徐々に三頭政治側の繋がりは弱まりつつあり、紀元前53年にカルラエの戦いでクラッススが戦死したことで名実共に崩壊した。カトは反カエサルの旗頭としてポンペイウスへ徐々に接近し、紀元前52年にはクロディウスが暗殺されて混乱状態に陥ったローマを治めるために、ポンペイウスへ単独で執政官に就くように要請した。 カトは紀元前51年の執政官選挙に立候補したものの敗北した。猛烈な贈収賄と選挙違反が横行した選挙であったが、カトは正々堂々と選挙戦を戦った。但し、これがカトにとって最後の執政官選挙への立候補となった。 カエサルがガリア総督として任期が切れる紀元前49年に執政官選挙へ任地から立候補できるように元老院へ依頼があったが、カトら元老院派はカエサルが軍を全て解散した後でなければ認められないと伝えた。カエサルは1つの属州と2つのローマ軍団まで削減すると譲歩し、ポンペイウスやキケロらはカエサルの意向に沿った内容での落ち着きどころを見出そうとしたが、カトはドミティウスやその年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスらと共にこの譲歩案に対して激しい批判を浴びせ、元老院として一切譲歩しない方針を示し、カエサルに対するセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムを決議した。カエサル派の護民官らはローマから逃れざるを得なかった。
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