カエサルと内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
紀元前56年、ローマ海軍は初めて地中海の外での戦闘に参加した。この戦いはカエサルが主導していたガリア戦争中において、ウェネティ族という海上活動に長けたガリア人の一派がローマに対して反乱を起こしたときに発生した戦闘である。この頃のローマ海軍は、ウェネティ族の水軍に対して不利な立場に置かれていた。というのも、ローマ海軍は大西洋の気候・天候をよく知らず、地中海には存在しない、潮汐・海流が存在するひらけた海での戦闘に全く慣れていなかったからだ。それに加え、ウェネティ族の軍船はローマ海軍の軽装ガレー船より優れていた。ウェネティの船はオークで構成されており、また櫂を装備していなかったので、ローマが得意とする体当たり攻撃に強かった。それに加え、ウェネティ族の軍船はローマのものより高さがあったため、飛び道具での攻撃や敵船に乗り込む際に有利であった。そんな両者の艦隊がモルビアン湾の海戦にて衝突した折、カエサルの腹心D.ブルトゥス率いるローマ艦隊は竿の先につけたフックを用いて、ウェネティ族軍船を操船する際に用いるハリヤードを切断し動きに鈍らせた。ハリヤードを破壊されて操船不可能な状態に陥ったウェネティ艦隊は、次々と乗り込んでくる歴戦のローマ軍団の餌食となり、戦場から逃走しようとしたウェネティ艦隊は、突然無風状態になって動けなくなったところをローマ側に拿捕された 。この戦闘によりローマはイギリス海峡を抑えることに成功し、翌年行われることとなるカエサルのブリタンニア侵攻につながったとされている。 3世紀までの間に地中海で発生した最後の大規模な海軍遠征は、ローマ共和政を終わらせたローマ内戦であった。この頃、エーゲ海で最後まで独立した勢力を保っていたロードス島な海軍をコス島沖で壊滅させたガイウス・カッシウス・ロンギヌスは東方地域にて共和派の勢力を築き上げた。一方西方では、第二回三頭政治側に対して、グナエウス・ポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスが反乱を起こしていた。セクストゥス・ポンペイウスはシチリアを手中に収め、イタリア半島を艦隊をもってして包囲し、アフリカ属州からの穀物輸入を妨害した。食糧難に困ったイタリア半島民は三頭政治に不満を抱き、大きな政治的案件となって三頭政治に重くのしかかった。紀元前42年、三頭政治側の艦隊はセクストゥスの艦隊に大いに敗れた。そして三頭政治の1人として政治に深く関与していたオクタヴィアヌスは彼の腹心マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの援助のもとで強大なローマ艦隊建設に着手した。軍船はラヴェンナ・オスティアにて建設され、クーマエにあらなな軍港を建設した。そして兵士や漕ぎ手など、20,000人を超える解放奴隷を戦争のために徴集した。そして紀元前36年、ナウロクス沖の海戦でオクタヴィアヌス艦隊はセクストゥス・ポンペイウス艦隊を破り、ポンペイウス派の反乱を完全に沈めた。 オクタヴィアヌスはその後、紀元前31年、マルクス・アントニウスとエジプトの女王クレオパトラ7世の連合艦隊をアクティウムの海戦で破った。この海戦では、アントニウスは500隻、オクタヴィアヌスは400隻の艦隊を徴集していたという。この最後の、ローマ共和制期における海戦により、オクタヴィアヌスはローマ・地中海世界における唯一の統治者としての権威を手にすることになった。アクティウムでの大勝ののち、彼は地中海に複数の重要な港を建築し、海軍の体制をより組織だったものとした。そしてローマ海軍の主な役割は海賊集団からの艦船の護衛や軍隊の護送、河川のパトロールなどになった。しかしながら依然として、帝国の外縁部では海軍は外部勢力との戦闘に従事していた。
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