カエサルの副官
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「プブリウス・ウァティニウス」の記事における「カエサルの副官」の解説
紀元前59年12月10日、護民官任期の終了と共にカエサルはウァティニウスを彼のレガトゥス(副官)に任じた。しかし、ウァティニウスはウァティニウス法に不満を持つカエサルの政敵から直ちに告訴された(護民官は在任中は不可侵特権がある)。この裁判の内容は不明だが、研究者は不敬罪ではないかと考えている。裁判の原告はガイウス・リキニウス・マケル・カルウスであり、判事はガイウス・メミウスであった。判決は不明であるが、ウァティニウスのその後の経歴からは無罪であったと思われる。 裁判が片付いた紀元前58年3月に、ウァティニウスはカエサルと共に北へ向かった。彼がカエサルと共にガリア・トランサルピナに向かったが、あるいはキサルピナに留まったかは不明である。しかし、ガリア戦争におけるウァティニウスの記載は無い。加えて、その年にキケロを告訴した護民官プブリウス・クロディウス・プルケルを支援していることから、ウァティニウスはローマから遠く離れることはなかったと思われる。 紀元前57年にはアエディリスに立候補するが、落選してキケロを喜ばせた。落選の理由は、ポンペイウスからの支援が無かったからである。但し、ウァティニウスと組んでいたプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルは当選し、前年にキケロの追放を解除したティトゥス・アンニウス・ミロを法廷に立たせた。ウァティニウスはミロ裁判とプブリウス・セスティウス裁判(紀元前56年2月-3月)の証人となった。しかし、どちらの裁判においても被告は無罪となった。セスティウス裁判ではキケロが弁護人となった。弟に宛てた書簡によれば、キケロはウァティニウスを激しく批判し、喝采を受けたという。
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