カエサルの敵として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/21 06:17 UTC 版)
「アレシアの戦い」も参照 紀元前52年、アトレバテス族はウェルキンゲトリクスによって率いられた全ガリア人によるローマに対する一斉蜂起に参加し、コンミウスはアレシアに包囲されているウェルキンゲトリクスを救出する軍のリーダーの1人となった。しかし、ローマ軍に阻まれてアレシアの救出に失敗、ウェルキンゲトリクスはカエサルに降伏した(アレシアの戦い)。 ウェルキンゲトリクスが敗北した後、コンミウスはベッロウァキ族(en)による反乱に参加、ゲルマニア人の援軍として騎兵500人を連れて帰ったが、ベッロウァキ族の軍がローマ軍に敗退すると、コンミウスはゲルマニア人の勢力の元へ逃れていった 紀元前51年、コンミウスは手下の騎兵部隊を率いて、扇動とゲリラ戦を行うためアトレバテス族の本拠へ戻った。アトレバテス族の支配地に冬営中であったマルクス・アントニウスは、コンミウスと遺恨のあったウォルセヌスに対して騎兵部隊を率いてコンミウスを追討するよう命令した。ローマ軍とコンミウスの騎兵部隊は戦ってローマ軍が勝利を収めたが、ウォルセヌスはコンミウスによって大腿に槍傷を受けた。コンミウスは逃亡して、仲介者を通じて和平を申し込んだ。 コンミウスは人質を差し入れ、もはやカエサルへ抵抗せずに、指定された場所へ住むと約束した。ただし、ローマ人の前に出ることは無理であると主張した。アントニウスはこの和平提案を承諾した。 セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(en)の「戦略論」(ストラテゲマタ)には、コンミウスがカエサル軍の追跡者から逃れてブリタンニアへ渡ったことを記している。 コンミウスがイギリス海峡へ到着したとき、順風であったが干潮であり、船は陸に乗り上げていた。コンミウスはとにかく帆を上げるように命令した。遠くから見ていたカエサルは船が出帆したと考えて、追跡するのを諦めた。これは、アントニウスとの間の休戦協定が破棄されて、カエサルとコンミウスの間で戦闘があったことを示す。 しかしながら、ジョン・クレイトン(John Creighton)は、コンミウスがアントニウスとの協定に従って、ローマ人と2度と出会うことのない場所であるブリタンニアへ渡ったとし、フロンティヌスの逸話は、フロンティヌスがブリタンニア総督を務めていた時期(75年-78年)に恐らくは歴史的に曖昧な逃走の状況を聞いたもの、と主張している。 クレイトンは、コンミウスがカエサルによって、ブリタンニアでの親ローマの王として送られたと主張し、コンミウスの裏切りはティトゥス・ラビエヌス(ローマ内戦で元老院派についてカエサルと交戦していた)によるものとして名誉を回復させている。 コンミウスの名前はガルマノス(Garmanos)またはカルシキオス(Carsicios)と共にガリア戦争後の日付が入った硬貨に記されている。これは、コンミウスが代理人を通じて、ガリアに対して何らかの影響力を維持していたことを示している。ガルマノスとカルシキオスは、コンミウスの息子であった可能性もあり、彼ら自身の硬貨に父(コンミウス)の名前を記したとも考えられる。
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