カエサルの部下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:42 UTC 版)
「マルクス・アントニウス」の記事における「カエサルの部下」の解説
その後、ガリア総督ユリウス・カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリア戦争に従軍。アレシアの戦い(紀元前52年やコンミウス相手の戦い(紀元前51年)で活躍した。 紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡った際には護民官の職にあった。ローマ内戦でカエサルがギリシアへ先行した際には、後続隊を率いて困難な情勢下で合流、紀元前48年のファルサルスの戦いで活躍した。 カエサルが東方へ遠征している間、イタリア本国での政務を託されたが、十分な働きが出来なかった。紀元前48年にカエサルが二度目の独裁官に就任した際には、マギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に指名された。キケロはアントニウスを「肉体が頑丈なだけが取り柄の無教養人で、酒に酔いしれ下品な娼婦と馬鹿騒ぎするしか能のない、剣闘士並みの男」と評した。 カエサルが共和派に暗殺(英語版)された年には、その同僚コンスル(執政官)であった(カエサルは終身独裁官とこの年の執政官を兼任)。暗殺後は、コンスルとして国庫を掌握し、旧カエサル派を代表する形で共和派といったん和を結び、カエサルの葬儀挙行を認めさせる。そしてその葬儀の場で民衆を煽動して共和派を追放した。しかし、カエサルは遺言状でカエサルの姪の息子オクタウィアヌスを後継者に指名していた。オクタウィアヌスが元老院と結ぶと、アントニウスはガリアにいたカエサルの副官であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスらと同盟しオクタウィアヌスに対抗した。
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