カエサル暗殺
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「マルクス・ユニウス・ブルトゥス」の記事における「カエサル暗殺」の解説
内戦後、独裁色を日増しに強めていくカエサルの行動に元老院内では共和制の終焉を危惧する声が聞かれ、何時しか暗殺の謀議が巡らされ始めた。 ブルトゥスは当初暗殺の謀議には加わっていなかったが、周囲から暗殺に加わる様に促された。暗殺の首謀者であるカッシウス・ロンギヌスが祖先ルキウス・ブルトゥスの銅像の前に手紙を置き、ユニウス氏族の使命を思い起こさせたと言われているが、この有名な逸話はウィリアム・シェイクスピアによる創作と見られている。カッシウス・ディオによれば「王の如きカエサルの振る舞いに、元老院議員として率直に反感を抱いたのだろう」と結論している。妻ポルキア・カトニスも父の仇であるカエサル暗殺に賛同し、唯一の女性参加者となった。 暗殺が実行に移された3月15日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めており、暗殺計画が露呈した様にも思われた。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと疑われても議場に留まっていた。そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、フブリウス・セルウィリウス・カスカ・ロングスによれば最初に短剣で一撃を加えたという。カエサルは辛うじて致命傷は免れたが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガに覆う仕草を見せた。 数十人の議員達によってカエサルは四方から滅多切りにされ、その凄まじさは議員同士で手を切りあってしまうほどであったという。
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カエサル暗殺
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紀元前44年3月15日にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス、ガイウス・カッシウス・ロンギヌスらに暗殺(英語版)される。この時はカエサルの指示で、トゥリヌスはギリシア西海岸にて遊学中であったが、急遽ローマへ帰還する。その途中、ギリシアからほど遠くない南部イタリア、ブルンディシウム近郊のリピアエでカエサルが自分を後継者に指名していたことを知る。これにより、わずか18歳の無名な青年に過ぎなかったトゥリヌスは、一躍有名になった。そして以後、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus)を名乗ったようである。 ブルンディシウムでカエサル配下の軍団兵たちから温かい歓迎を受けたオクタウィアヌスは、カエサルの側近たちの協力も得て、カエサルの遺志であるパルティアとの戦争を遂行するため、カエサルが集めた公的資金を要求、70万セステルティウスもの資金がブルンディシウムに集められた。そして元老院の査察のもと、その資金で軍団を編成し、東方に派遣したとされているが、実情はアントニウスを中心とする元老院の反オクタウィアヌス派に対抗するための軍団を編成していた。そして、また彼は、権限なしで東方の属州からローマにわたるはずの税収を収用した。 パルティアはカエサルが戦うはずであった宿敵であり、この戦争をちらつかせることでオクタウィアヌスはカエサルの後継者としての支持を集める。そしてローマへの帰還中、オクタウィアヌスのもとに様々な支持、とくにカンパニア在住のカエサル配下の退役兵から熱烈な支持を受ける。6月までに3,000の退役兵が集合し、オクタウィアヌスは1人につき500デナリウスの給付金を配った。こうしてカエサルの古参兵、側近とともにオクタウィアヌスは勢力を拡大し、有力なカエサルの後継者候補として政治の表舞台に躍り出た。
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カエサル暗殺
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「セルウィウス・スルピキウス・ガルバ (紀元前54年法務官)」の記事における「カエサル暗殺」の解説
後年、カエサルが独裁体制を築くと、ガルバは執政官(コンスル)任官に反対された。紀元前44年、ガルバはブルトゥスとカッシウスらのカエサル暗殺の陰謀に参加した。この結果、クィントゥス・ペディウスの法により断罪されて処刑された。
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カエサル暗殺
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「イードゥース・マルティアエ」の記事における「カエサル暗殺」の解説
今日では、アイズ・オブ・マーチは紀元前44年にユリウス・カエサルが元老院の議場にて刺殺された日付として知られている。ブルトゥスやカッシウスが率いる60人もの共謀者がこの暗殺に関与した。プルタルコスによると、遅くともイードゥース・マルティアエまでにカエサルに危険が訪れるだろうと予言者は警告した。彼が暗殺されることになるポンペイウス劇場への道中、カエサルはその予言者に出会うと「イードゥース・マルティアエの日が来たな」と予言が当たらなかったことを茶化したが、予言者は「いかにも来ました、しかしまだ終わってはおりませぬ」と応えたという。この予言者とカエサルのやり取りはウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』によってよく知られている 。ローマの伝記作家スエトニウスは、この予言者はスプリンナ(Spurinna)という名の臓卜師であると特定している。 カエサルの死は、内乱の一世紀の終わりの始まりであった。カエサル死後の争乱の末に、カエサルの後継者オクタウィアヌス(アウグストゥス)による権力掌握につながることになった。 アウグストゥス治世下で活躍した詩人オウィディウスは、その詩『祭暦』において最高神祇官でもあったカエサルの暗殺をウェスタの巫女への冒涜になぞらえて描写している。紀元前40年、ペルシアの戦い(英語版)での勝利の後に行われたカエサル死後4周年の際には、ルキウス・アントニウス(マルクス・アントニウスの弟)の下でオクタウィアヌスに歯向かった300名の元老院議員とエクィテスを処刑している。この処刑は、カエサルの死に対する報復としてオクタウィアヌスがとった一連の行動の一つであった。スエトニウスと歴史家カッシウス・ディオは、この虐殺がイードゥース・マルティアエに神格化されたカエサルの祭壇で行われたことに注目し、宗教的な生贄とみなしている。
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