カエサル派となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:27 UTC 版)
「プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の記事における「カエサル派となる」の解説
紀元前49年にポンペイウスとカエサルの内戦が始まると、イサウリクスはカエサルを強力に支持した。プルタルコスによれば、紀元前48年末に、ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスがカエサルに和平交渉の開始を提案した際、イサウリクスは反対した。紀元前49年12月、カエサルは自身の同僚としてイサウリクスを次期執政官に任命した。ロシアの歴史学者A. イエゴロフによると、イサウリクスは「穏健な政策を続ける」とし、既得権益者であるノビレス(新貴族)に対して、いかなる急進的な措置を取らないことを宣言した。 カエサルはポンペイウスと戦うためにバルカン半島に出征したが、イサウリクスは執政官としてローマに留まった。このときローマでは法務官マルクス・ケリウス・ルフスが騒ぎを起こした。ルフスはデマゴーグとして行動し、借金の債務を帳消しにして、さらに家の賃貸料も免除することを提案した。これを受けて、元老院はルフスを解任することを決定し、の決定に基づいてイサウリクスは、元老院からルフスを追放し、フォルムでの演説も禁じた。リフスはローマを離れ、ティトゥス・アンニウス・ミロと同盟して反乱を起こしたが、敗れて死亡した。ポンペイウスがファルサルスの戦いで決定的な敗北を喫したとの報告がローマに届くと、イサウリクスは元老院決定に基づいてカエサルをディクタトル(独裁官)に任命した。従来とは異なり、カエサルの独裁官任期は6ヶ月ではなく1年とされた。 紀元前46年から44年まで、イサウリクスはアシア属州総督を務めた。 彼は内戦とポントスの侵略に苦しんでいた地域を安定させるために多くの政策を実施した。この間にキケロからイサウリクスに宛てた書簡が7通残っているが、その内容は友情の保証と様々な人々への推薦である。イサウリクスの名前は、ペルガモン、スミルナ、エフェソス、マグネシア、テノスといった、小アジアの都市に残る碑文に刻まれている。これらの碑文の中で、この地方の人々は、地方の宗教を保護をしてくれた総督に感謝を述べている。
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