アシア属州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 09:12 UTC 版)
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アシア属州(アシアぞくしゅう、ラテン語:Asia, provincia Romana)は、古代ローマ時代のアナトリア半島西部に存在した属州。区分は元老院属州。古くはフリギアと呼ばれ、ギリシア神話やホメロスのイリアスにもその名が散見する、早くより文明化した地域である。
その後フリギアはアッタロス朝ペルガモン王国の支配下に入ったが、紀元前133年に共和政ローマがそのペルガモンを支配下におくと、ローマはフリギアをアシアとガラティアの2属州に分割した。ただしアシア属州はその発足当時から古名のフリギアで呼ばれることの方が多かった。
3世紀の軍人皇帝時代あたりを盛衰の分岐点として、以後のローマはゴート族の侵入やパルミラ帝国の圧迫などで混乱を極めた。ディオクレティアヌス帝はアシア属州を7つの州に分割したが、そのうちエフェソスやサルディスなど古くから歴史と伝統を持つ都市部の州が発展した一方で、未開の内陸部に位置する州は衰退することとなった。
395年にローマ帝国が東西に分裂すると、アシア属州は東方属州として東ローマ帝国の一部となる。イスラム勢力と国境を接するシリア属州やエジプト属州が失われた後も、地中海に面したアシア属州の一部は15世紀にオスマン帝国に併呑されるまでビザンツ帝国の属州として存続した。
アシア属州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 03:03 UTC 版)
「プブリウス・ルティリウス・ルフス」の記事における「アシア属州」の解説
紀元前90年代になって、ルフスは、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラが総督を務めるアシア属州のレガトゥス(特使)となった。より正確な時期に関しては議論の対象となっており、紀元前98年、紀元前97年、あるいは紀元前94年という説がある。また、ルフスが実際には全権を有していたとの説もある。何れにせよ、評判の良かったスカエウォラとルフスが東方に派遣されたのは、ポントス王ミトリダテス6世との戦争の危険が高まっている中で、アシア属州の事情を改善し、現地民のローマへの忠誠心を高めるためであったと憶測される。あるいは彼らの任務の目的は、ローマによる地方支配の性質を根本的に変え、搾取から協力へと移行することであったかもしれない。 二人は、前総督と共謀して多額の金を稼いでいた徴税請負人(主として騎士階級)の権利を整理した。また公平な法廷を運営することで、彼らは「すべての法的策略から属州の人々を解放した」。徴税請負人と属州住民の利益が衝突する場合には、二人は後者に有利な決定を下すことを恐れず、有罪者に損害賠償を言い渡した。違法な処刑の事実が明らかになった場合には、同様の処罰を課することもあった。シケリアのディオドロスによると、ある徴税請負人の代理人は奴隷であり、その主人に対して徴税利益で解放される契約をしていたが、徴税前に総督の命令で死刑になったという。 ローマ人が関わらない事件については、ギリシア人が自身の法律に従って裁くことが保証された。すべての行政官は自分の費用を支払わなければならなかった。これらすべての措置は、一般的な緊縮政策と相まって、属州の経済状況を大幅に改善した。 スカエウォラがアシア属州に滞在したのは9か月間で、ルフスを残してローマに戻り、新しい総督を待つことになった。
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