ガリア・アクィタニアとは? わかりやすく解説

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ガリア・アクィタニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 04:46 UTC 版)

西暦120年の属州ガリア・アクィタニア

ガリア・アクィタニアラテン語: Gallia Aquitania ガッリア・アクィタニア)は、ローマ帝国属州のひとつ。かつてのアクィタニア地方であり、現在のフランス南西部アキテーヌ地方に該当する。東方にガリア・ルグドゥネンシス、南方にガリア・ナルボネンシス、西方にヒスパニア・タッラコネンシスの各属州と接していた。

概要

もともとはケルト人(とくにガリア人)が住み、南方のローマとは違う文化圏であった。アクィタニアの名は現地の部族アクィタニ族に由来する。そこにガイウス・ユリウス・カエサルが侵攻、ローマの属州とする(ガリア戦争)。アウグストゥスの治世に皇帝属州となる。皇帝の命を受けたプロプラエトルは軍隊を従えず、任地に赴いた。アクィタニア属州の州都はメディオラヌム・サントヌム(Mediolanum Santonum、現:サント)に置かれた。

紀元前58年の属州ガリア・アクィタニア

ディオクレティアヌスの治世にはガリア・アクィタニアは、アクィタニア・プリマ(Aquitania Prima)、アクィタニア・セクンダ(Aquitania Secunda)、アクィタニア・テルティア(Aquitania Tertia)の3つに分割された。

418年、ローマ皇帝ホノリウス西ゴート人を「友邦者」として扱い、この地を永住の地として与える。そしてこれが西ゴート王国の始まりとなった。

西ローマ帝国滅亡後

そして西ローマ帝国滅亡後に西ゴート族は彼等はトロサ(現在のトゥールーズ)を拠点とし、ピレネー山脈を越えてヒスパニアに侵攻する。しかし507年にはフランク族に押される。629年メロヴィング朝クロタール2世が死去するとフランク王国を息子で分割。西フランク王国の基礎となった。


ガリア・アクィタニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 08:27 UTC 版)

ガリア」の記事における「ガリア・アクィタニア」の解説

アクィタニア人英語版)」が居住するといわれたフランス南西部は、アクィタニア(Aquitania アクィーターニア)と呼ばれガリア一部考えられていた。ローマ化以前ガロンヌ川南部指したが、属州としてのガリア・アクィタニアはガロンヌ川より北へ大きく越えて設置された。現在のアキテーヌAquitaine地域圏相当する

※この「ガリア・アクィタニア」の解説は、「ガリア」の解説の一部です。
「ガリア・アクィタニア」を含む「ガリア」の記事については、「ガリア」の概要を参照ください。

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