269年から274年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:39 UTC 版)
「ガリア帝国」の記事における「269年から274年まで」の解説
ポストゥムスの死後、ガリア帝国は崩壊過程を辿ることとなり、ローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスはガリア・ナルボネンシスとガリア・アクィタニアを奪還し、ヒスパニアもローマ帝国の勢力圏へ復帰させた。 マルクス・アウレリウス・マリウスは、ポストゥムス死後にガリア帝国の皇帝へ即位したが、非常に短期間で死去した。僅か2日間のみの在位期間であったと伝えられるが、実際には数カ月は在位したと考えられている。アウレリウスの次にマルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌスが皇帝へ即位し、クラウディウスによって奪われたガリア地区の領土を奪還するべく兵を起こした。ウィクトリヌスの権威はガリア北部(ガリア・ベルギカなど)やブリタンニアに及んでいたが、ヒスパニアを奪還するには至らなかった。ウィクトリヌスは対ローマ戦へ治世の大部分を費やし、271年に暗殺された。なお、271年頃にドミティアヌスが皇帝を僭称して反乱を起こしたが、その年の内に鎮圧された。 ウィクトリヌス殺害後、母ウィクトリアは勢力維持を目論んでカイウス・ピウス・エスウィウス・テトリクスを次期皇帝として指名し、軍からの支持も受けてテトリクスはテトリクス1世として即位した。テトリクスは領内のガリア地区へ侵犯したゲルマン人を撃退し、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスがローマ帝国から割拠したパルミラ帝国を征服するべく遠征している間に、ポストゥムス死後に奪われたガリア・ナルボネンシスとガリア・アクィタニアを奪還した。テトリクスはアウグスタ・トレウェロルム(Augusta Treverorum、現:トリーア)へ首都機能を移転させ、273年に息子を共同皇帝とした(テトリクス2世)。 273年にパルミラを征服したアウレリアヌスはローマ帝国再統一を果たすべく、274年にガリア帝国へ侵攻した。シャロンの戦いでガリア帝国軍はローマに敗北し、テトリクス1世らが捕虜となった。なお、戦乱続きで国力が疲弊していたテトリクス1世は、戦闘に至る前にアウレリアヌスと交渉して自らの身の安全の代わりにガリア帝国を引き渡したとも伝えられる。 いずれにしても、アウレリアヌスによるガリア帝国への遠征は成功に終わり、ガリア帝国は解体されてローマ帝国へ再統合された。なお、アウレリアヌスの凱旋式にテトリクスは捕虜として連行された。
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