ダルダノスの和約
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「ルキウス・コルネリウス・スッラ」の記事における「ダルダノスの和約」の解説
追い詰められたミトリダテスはアルケラオスを通じて和睦を申し入れた。スッラは徴収した供物などの軍資金を使い切っており、また国家の敵となった今本国からの支援も期待出来ず、ルクッルスの艦隊も到着していなかったが、あえて高圧的な態度を取り、ミトリダテスの悪事を並べ立て、その軍勢16万をことごとく討ち滅ぼすつもりであると述べ、恭順する場合は占領地からの全面撤退と艦隊の委譲などを条件にした。更にアルケラオスに寝返るよう勧め、アルケラオスはそれには怒ったものの、守備兵を退去させミトリダテスに条件を伝えた。 ミトリダテスからの使者は、アルケラオスにフィンブリアと交渉すればもっと有利な条件を引き出せると伝えた。それに怒ったスッラは、フィンブリアを討伐し、直接アシアに乗り込んでミトリダテスと交渉すると宣言した。スッラはやっと到着したルクッルスの艦隊を率いて沿岸部を荒らし回りながら進撃し、トローアスでミトリダテスとの会談に及んだが、ミトリダテスは以前スッラがアリオバルザネス1世を復位させたことなど、ローマ側の非を鳴らした。スッラは以前マニウス・アクィッリウスがミトリダテスにフリュギアを与えることを約束したが、彼はローマで有罪となっており、それらの約束は無効であること。ギリシャの諸都市などに対して行った無法を許すつもりはなく、恭順する気がないのであれば力尽くでもギリシャを取り戻すと脅し、ついにミトリダテスはスッラに屈し、紀元前85年、和平が成立した(ダルダノスの和約)。 フィンブリアはスッラに法的な指揮権(インペリウム)はないことを主張したが、スッラに包囲されると兵士たちは相次いで脱走し、スッラ暗殺計画も失敗して会談を望んだ。しかしスッラは代理人を立てて相手にせず、フィンブリアは自決しその軍はスッラに吸収された。スッラは戦果を元老院に報告しつつ、艦隊を供出するなど協力した諸都市に対しては自由を与えたが、そもそもの開戦の原因となったローマ人虐殺にアシアの諸都市が協力したことを理由に、それらの都市からは戦費の徴収を命じた。
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ダルダノスの和約
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「第一次ミトリダテス戦争」の記事における「ダルダノスの和約」の解説
敗北を聞いたミトリダテス6世は、恐怖政治によって沿岸のギリシャ人諸都市を引き締めようとしたが、かえって諸都市の反乱を招いた。 一方、ローマでは、紀元前86年にガイウス・マリウスが権力を握ってスッラを公敵と認定した。マリウス死亡後に補充執政官となったルキウス・ウァレリウス・フラックスの下に2個軍団を中心にした軍が編成され、遠征に乗り出した。この軍はスッラとは戦わず、テッサリアに入ってそこに残存するミトリダテス6世軍を駆逐した。この時フラックスとレガトゥス(総督代理)ガイウス・フラウィウス・フィンブリア(en)の間で争いが起こり、フィンブリアがフラックスを殺して軍の指揮権を奪った。フィンブリアは小アジアに渡り、アシア属州の奪回にとりかかった。 ミトリダテス6世は遠隔にあるスッラとの和平交渉をはじめた。小アジアに上陸したスッラと会談して紀元前84年にダルダノスの和約(Dardanos、現:ダーダネルス)を取り決めた。主な内容は以下の通りであった。 ミトリダテス6世は占領した地方(カッパドキア、ビテュニア、フリギア(アシア属州)、パフラゴニア(英語版) )を全て放棄して、カッパドキア王及びビテュニア王が元の地位へ復帰することを認める。 ミトリダテス6世は自身の個人資産から賠償金として2,000タラントをローマに支払う。 ポントス海軍の軍船を全てローマへ引き渡す。 その後、スッラはフィンブリアと対陣し、軍勢の引渡しを求めた。フィンブリアは抗戦しようとしたが、脱走兵が相次いだため、降伏して自殺した。しかし、ミトリダテス6世はカッパドキアの一部を領有したままだったため、和約の翌年に第二次ミトリダテス戦争が起きた。
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