マリウス派とスッラ派の間で
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「ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前91年の執政官)」の記事における「マリウス派とスッラ派の間で」の解説
執政官任期が満了する前に、ローマの同盟都市は反乱し、同盟市戦争が始まった。このため、翌紀元前90年にはウァリウス法が制定される。これは、同盟都市の反乱を扇動したローマ市民を裁判にかけるための法律である。ピリップスはクィントゥス・ポンペイウス・ルフス(紀元前88年執政官)とルキウス・メンミウス(紀元前89年護民官)の裁判に、告発側の証人として出廷している。キケロはこの裁判を見学していたが、ピリップスは「特に雄弁で、彼の追求は告発人の力強さと能弁さを持っていた。」と語っている。 同盟市戦争は実質的には紀元前89年に終結するが、今度はマリウス派とスッラ派の間に、内戦が勃発した。この内戦に関するピリップスの立場に関しては、歴史学者の一致を見ていない。ミュンツァーは、ピリップスはポプラレス(民衆派)に属しており、騎士階級との関係も深いことから、マリウス派であったと考えている。一方では、どちらにも属さず、行動の自由を確保していたとの見方もある。一つ確かなことは、紀元前87年末にマリウスとルキウス・コルネリウス・キンナがローマを占領したとき、ピリップスは他の多くの元老院議員とは異なり、ローマに残ったということである。キンナが執政官を務めた間(紀元前87年-紀元前84年)、ピリップスはローマに残っていた3人の執政官経験者のうちの1人であった。このため、紀元前86年にはマルクス・ペルペルナと共にケンソル(監察官)に就任している。このときに実施された国勢調査では、同盟市戦争後に市民権を得たイタリック人も対象になった。ただ、成人男子ローマ市民の人口は463,000人で、統計が残っている紀元前115年の394,336人からさほど大きく増えていない。大幅な人口増加が認められるのは次の国勢調査(紀元前70年)で、約91万人とされている。 このときの元老院議員監査で、ピリップスは叔父であるアッピウス・クラウディウス・プルケル(後の紀元前79年に執政官就任)が元老院から除名されているが、これはプルケルがスッラを引き続き支援していたためである。一方で同じ年にピリップスは、紀元前89年にグナエウス・ポンペイウス・ストラボがアスクルムで得た戦利品を横領した罪で告発された、ストラボの息子である18歳のグナエウス・ポンペイウス(後のポンペイウス・マグヌス)を法廷で弁護した。ポンペイウスを弁護した他の人物は、後に三度執政官となったグナエウス・パピリウス・カルボ と、若くても将来有望なクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス(紀元前69年執政官)であった。プルタルコスによれば、ピリップスは法廷で「ピリッポス2世がアレクサンドロス大王を愛していても不思議ではない」と述べたと言うが、これはアレクサンドロス大王とポンペイウスの外見が似ているとされていたことを念頭に置いたものであった。結局ポンペイウスは無罪となった。 この間に、マリウス派の主敵であるスッラはバルカン半島でミトリダテス6世と戦っていた(第一次ミトリダテス戦争)。スッラは同時にイタリアへの上陸とマリウス派との戦いを準備しており、ミトリダテスとの間にダルダノスの和約を締結するとイタリアに向かった。元老院には両派の妥協案を唱える有力な中道主義者グループがいたという意見がある。このグループはルキウス・ウァレリウス・フラックスが率いていたが、ピリップスもその一員であり、監察官としての権限で和平を達成できる可能性もあった。しかし戦争が避けられないことが明らかになると、ピリップスをはじめとする中道主義者は一人ずつスッラの側に回っていった。ピリップスが加わったことは、スッラ派にとって大成功であった。それまでスッラ派は監察官を正当と認めていなかった。紀元前82年、スッラはピリップスにサルディニア属州を支配するよう依頼した。マリウス派の総督クィントゥス・アントニウス・バルブスは追放されて殺された。おそらくこの直後、ピリップスはコルシカ島をも占領したと思われる。
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