ダルツェドとカンゼの占領
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「中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「ダルツェドとカンゼの占領」の解説
1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずはカムのダルツェドで足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドからカンゼまでの自動車道建設と地形情報収集であった。 1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかった。 1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた。
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