開戦の原因
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「ベネヴェントゥムの戦い (紀元前212年)」の記事における「開戦の原因」の解説
紀元前212年にカプア攻略を狙ったローマ軍後を撃破した後(第一次カプア包囲戦)、ハンニバルはカンパニアを離れて南イタリアのタレントゥムの攻略を行っていた。他方ローマの2人の執政官(コンスル)、クィントゥス・フルウィウス・フラックスとアッピウス・クラウディウス・プルケルはサムニウムに滞在して、再度のカプア攻略の準備を行っていた。ローマ軍はカプア近郊の土地の種蒔を阻止していたため、カプアの食料は減り始めていた。 このため、カプアはハンニバルに連絡し、ローマ軍が到着して付近の土地・道路を占領する前に食料を運び込むように依頼した。ハンニバルはブルティウムに滞在していたハンノに対し、軍を率いてカンパニアに向かい、カプアに食料を供給するよう命令した。ハンノはローマ軍を避けるために、ローマの同盟都市であるベネヴェントゥムから4.5キロメートル離れた場所に野営地を設置した。そこから近郊のカルタゴ同盟都市に依頼し、兵士に護衛させて夏の間に食料を野営地に集積した。その後、カプアに対して荷車を集めて食料を受け取りに来るよう連絡した。しかしカプアは事前の準備がなく、400台の荷車と数頭の馬を集めることができたのみであったため、ハンノに叱責された。 この事を知ったベネヴェントゥム市民は、ボヴィアヌム(現在のボヤーノ)近くに野営していた執政官に直ちに通報した。これに応えて、フラックスはカンパニアに向かい、翌日の夜にはベネヴェントゥムに入城した。そこでハンノが軍の一部を率いて、荷車2,000台に食料を積んでカプアに向かったことを知った。カルタゴ軍野営地はいくらかの農民や奴隷が残っているだけで武装した兵士はほとんどおらず、混乱状態にあった。
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開戦の原因
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紀元前212年、ハンニバルが南イタリアのタレントゥムの攻略を目指しているとき、2人の執政官、アッピウス・クラウディウス・プルケルとクィントゥス・フルウィウス・フラックスはカプア攻略の意図を持って軍を進めていた。カンパニアに入ったローマ軍はカプア周辺の略奪を行ったが、マゴの率いるカルタゴ軍騎兵とカプア兵の奇襲を受けた。ローマ軍は蹴散らされ、1,500が戦死した。この後ローマ軍はより注意して行動するようになった。ハンニバルもまた弟のマゴと合流すべくカプアへ向かった。ハンニバルには、彼の不在中に起こった戦闘がカプアに有利であったため、カルタゴ軍の猛攻にはローマ軍は耐えられないとの確信があった。戦闘が始まると、カルタゴ軍騎兵の連続攻撃にローマ軍は苦しみ、また弓矢での攻撃に圧倒されていた。しかし、戦死したティベリウス・グラックスに代わってグナエウス・コルネリウス・レントゥルスが率いる新たな軍が接近してきた。両軍ともにこれが敵軍であることを恐れ、戦場から引き上げた。 最初のカルタゴ騎兵攻撃に衝撃を受けたローマ軍の被害は甚大であった。この戦闘の後、2人の執政官はハンニバルを避けてカプアから撤退することとした。翌日の夜に2人は分かれ、フラックスはクーマに、プルケルはルカニアに向かった。ローマ軍が二手に分かれた理由は不明である。ハンニバルは迷ったが、プルケルを追撃することにし、シラルス川(現在のセレ川)沿いの平原で追い着いた。 マニプルスの一つを指揮していたケントゥリオ(百人隊長)のマルクス・センテニウス・ペヌラは優れた体力と勇気で知られていた。ペヌラは法務官プブリウス・コルネリウス・スッラに対して、ハンニバルの追撃からプルケルと軍主力を逃がすため、殿として5,000の兵の指揮を任せてほしいと申し出た。ペヌラはこの付近の地形を熟知しており、独自の戦術でハンニバルに対応しており、何度もローマ軍司令官に勝利をもたらしていた。結果、5,000ではなく8,000(ローマ軍4,000、同盟国軍4,000)の兵力でハンニバルに対応することになり、さらに同数の非武装の志願兵が加わっていた。
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開戦の原因
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「ヘルドニアの戦い (紀元前212年)」の記事における「開戦の原因」の解説
カプア攻略を目指していた2人の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケルとクィントゥス・フルウィウス・フラックスはカプアでの戦闘に敗れたが、ハンニバルをカプアから引き離すために二手に分かれて撤退した。フラックスはクーマに、プルケルはルカニアに向かった。ハンニバルは迷ったが、プルケルを追撃することにし、それにシラルス川(現在のセレ川)沿いの平原で追い着いた。ここでハンニバルはローマ軍に大勝した(シラルスの戦い)。 しかしローマ軍は諦めず、執政官二人は攻城兵器を準備し再びカプアを包囲することとした。ヴォルトゥルヌス川沿いのカシリヌムに食料を集積し、また河口のヴォルトゥルヌムの防備を強化して守備兵をおいた。また制海権強化のためプテオリ(現在のポッツオーリ)にも守備兵をおいた。これら二つの港湾要塞とローマの外港であるオスティアに、サルディニアからの食料と法務官のマルクス・ユニウス・シラノがエトルリアで冬季に集めた食料を集積した。この危機的な状況の中、ハンニバルはカプアを離れることは望まなかったが、法務官グナエウス・フリウィウス・フラックスがアプリアの幾つかのカルタゴ側都市を攻撃し成功したとの連絡が届いたため、そちらに対処するためにアプリアに向かわざるを得なかった。ハンニバルはこの新しく編成されたローマ軍を殲滅する意思を固めてた。
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