開戦の原因:人質の殺害と裏切り
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「タレントゥム攻城戦 (紀元前212年)」の記事における「開戦の原因:人質の殺害と裏切り」の解説
リウィウスの記録から、ハンニバルは紀元前213年の夏にはタレントゥムの奪取を期待してサレントの田舎で過ごしていたことが分かる。紀元前212年初期には、いくつかの小さな都市がカルタゴ側に付いた。 一方ローマは裏切りを防ぐために、タレントゥムとトゥーリの指導層から人質を取っていたが、親カルタゴ派からの薦めに従い、人質達はローマから脱走した。しかしテッラチーナで捕らえられ、杖で打たれた上にタルペーイアの岩から突き落とされて殺され、両都市を憤慨させることとなった。ポリュビウスによると、タレントゥムの親カルタゴ派の市民は夜中に街から出てハンニバルの野営地に向かい(約3日の距離であった)、使節としてハンニバルに面会に来た親ローマ派のリーダーであるフィルメノとニコーネを待ち伏せしていた。彼らを逮捕した後、ハンニバルに街を渡すことを同意させた。その後ハンニバルは彼らを釈放して街に戻らせ、市民を説得させるようにした。2度目の使節がハンニバルに送られ、街を明け渡した場合にも税金は払わないこと、現在の法を維持し資産を保全することを要求した。その代わりに、街中のローマ人の家の略奪は認めた。 ハンニバルは同一場所に長く留まっていることをローマ軍に疑われないように、病気を装っていた。準備が整うと、10,000の優秀な歩兵と騎兵を率い、4日分の食料を持たせてタレントゥムに向かって出発した。ヌミディア騎兵8騎のみを6キロメートル程度先行させたために、本軍10,000の存在は気付かれなかった。ハンニバル自身もタレントゥムから22キロメートル程度まで接近していたが、指揮官達を召集して指示を与え、攻撃の夜を待った。目的は深夜に城壁に到達することであった。 他方フィルメノは「テメディニの扉」と呼ばれる南側の塔の守備をしていたローマの守備隊長(リウィウスによるとマルクス・リウィウス・マカト、ポリュビウスによるとガイウス・リウィウス)の機嫌をとり、攻撃予定の日にアゴラ(街の中央の広場)近くのムセイオンでの宴会にその友人とともに招待した。ハンニバルはこの時を待っていた。
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