開戦の背景
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大北方戦争でスウェーデン軍とロシア軍が決戦に入る直前の1708年から両国はオスマン帝国とその属国のクリミア・ハン国と接触、スウェーデン王カール12世はロシアの背後を脅かすことを希望した。しかしロシアのツァーリ・ピョートル1世は1708年から1709年にかけてオスマン帝国と交渉を行い、オスマン帝国がどちらにも味方しない中立の姿勢を取りクリミア・ハン国にも同様の指示を与えたことで、カール12世の目論みは失敗に終わった。 ところが、ロシアが1709年にポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を破った後、一転してオスマン帝国は反ロシアに傾いた。原因はオスマン帝国領ベンデルに逃亡した寡兵のスウェーデン軍をオスマン帝国が迎え入れたことにあり、スウェーデン軍を追ったピョートル1世はオスマン帝国にカール12世及びスウェーデン軍の引渡しを要求したが、帝国が拒否したためロシア軍とオスマン帝国の間で戦争が勃発した。 ポルタヴァの戦いに敗れ負傷したカール12世は、側近でポーランド・リトアニア共和国の軍人スタニスワフ・ポニャトフスキとフランスのオスマン帝国駐在大使の援助もあって、ポルタヴァからオスマン帝国スルタン・アフメト3世の宮廷に亡命した。そしてカール12世は1710年11月20日、ロシアに宣戦布告するようアフメト3世を説得、開戦と合わせてイスタンブールのロシア大使が投獄された。このカール12世の工作と宮廷の主戦論者が開戦を主張したことが戦争の原因に繋がった。ピョートル1世はアフメト3世に親書を送り開戦を避ける努力をしていたが、戦争が避けられなくなると1711年2月22日にオスマン帝国に宣戦布告した。
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開戦の背景
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「墺土戦争 (1787年-1791年)」の記事における「開戦の背景」の解説
戦争は露土間の紛争として始まった。18世紀のオスマン帝国とエカチェリーナ2世率いるロシア帝国の関係は度重なる戦争(英語版)により常に悪化していた。1787年8月オスマン帝国はロシアの「数々の挑発」に対し、耐えかねた為ロシアに対して宣戦布告した。1781年にロシアとの同盟を締結していたオーストリアはこの機会に介入を狙っていた。同盟により「全力でロシアを援助する義務」を課されていたこともあるが、ヨーゼフ2世が1783年から1784年までのクリミア(英語版)と同様に機会を逃したくなかったことも参戦の一因だった。 しかし、当時のオーストリアは所領の飛び地であったオーストリア領ネーデルラントでの支配に対する不満の高まりや北方の新興国プロイセン王国の脅威の高まりなどに直面していた為、参戦は(Hochedlingerによると)「これ以上不都合なタイミングがなかった」時期になされた。 同じくHochedlingerによると、オスマン帝国は宣戦布告にあたってミスをした。ロシアの視点では「紛争が侵略者からの防衛戦争であるとヨーロッパ大衆に示すことができるようになった。オスマン側の敵意により、フランスはロシアの貪欲からスルタンを守るという伝統的な役割を果たしにくかった」。
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