開戦の状況
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連合艦隊側では総司令官ドン・フアンが小舟で各艦に激励にまわっていた。 天候は快晴。東からの微風が吹き、オスマン艦隊にやや有利な状況である。 連合艦隊は右翼ドーリア艦隊71隻を中心に107隻、左翼がドン・フアン(ヴェニエル、コロンナらが配下)の艦隊89隻を中心に114隻、左翼後方にアゴスティーノ・バルバリーゴ艦長(ヴェネツィア元首アゴスティーノ・バルバリーゴとは別人)の艦隊55隻、後衛にはサンタ・クルスの30隻が控えている。 オスマン艦隊は右翼マホメッド・シャルーク(シロッコ)艦隊60隻、左翼クルチ・アリ・パシャ(ウルグ・アリ。本名はジョヴァンニ・ガレーニといい、南イタリア出身のキリスト教徒であったが、イスラムに改宗)艦隊100隻、中央がメジンザード・アリ・パシャ(トルコ語版)(アリ・パシャ)の直属艦隊93隻。さらに後衛に22隻がいる。
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開戦の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 14:33 UTC 版)
6月4日、神呪寺にいた赤松政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃したため、勝敗が決した。赤松政祐は以前から父・赤松義村の仇を討つために村宗を狙っていたのである。政祐は出陣する前から堺公方の足利義維へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。この赤松軍の寝返りは細川軍の動揺をもたらし、浦上軍に従っていた「赤松旧好の侍、吾も吾もを神呪寺の陣へ加わり」(『備前軍記』)と寝返りを誘発した。 そのような状況で赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が攻撃をしかけたので、村宗を始め侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)と書かれるほどの敗戦であった。 三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって打撃を受けた。 この結果、それまでの膠着状態から戦局が崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。
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