薬師寺国盛とは? わかりやすく解説

薬師寺国盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 13:49 UTC 版)

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薬師寺 国盛(やくしじ くにもり、生年不詳 - 享禄4年6月4日1531年7月17日))は、戦国時代武将細川氏(京兆家)の家臣。薬師寺元一の子・薬師寺国長の弟。幼名は岩千代丸。摂津国守護代(下郡)。通称は与次・三郎左衛門尉。

概要

薬師寺氏が務めていた摂津国守護代は薬師寺長盛(元長の弟)の子である元一・長忠兄弟の時代に上郡・下郡に分割されることになった。ところが、元一が永正元年(1504年)に反乱を起こして細川政元に討たれ、守護代職は長忠の下で再統合された。だが、長忠が細川政元を暗殺して細川澄之を擁立しようとすると、細川澄元細川高国らの討伐軍に討たれた(永正の錯乱)。

細川高国が細川氏の家督を得ると、元一の遺児である万徳丸・岩千代丸の兄弟が召し出され、元一・長忠兄弟の例に倣って摂津を分け与えられた。やがて、万徳丸は与一→九郎左衛門国長、岩千代丸が与次→三郎左衛門国盛と称したのは、元一・長忠の先例に随ったと考えられている[1]

細川晴元の攻勢が強まると、享禄元年(1528年)に薬師寺兄弟は一度は晴元に降伏した。しかし、享禄3年(1530年)8月、摂津富松城で高国方と戦うが、9月に敗れて大物城に逃走する。しかし、高国方が大物城にも攻め寄せると11月に降伏を余儀なくされ、その後は高国に帰参した。

享禄4年(1531年)4月、高国と共に京に侵攻したが、山崎においてかつての主君・晴元の武将である三好元長に敗北し、同年6月、大物崩れで敗死したとされる。

脚注

  1. ^ 馬部、2018年、P171-172.

参考文献

  • 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨木市史年報』第115号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6

関連項目

  • 薬師寺氏




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