退去、再び畿内へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:33 UTC 版)
大永8年(1528年)7月、それまでの功績により山城守護代に任じられたが、翌享禄2年(1529年)には新たに同僚となった柳本賢治・松井宗信らと険悪な状態となったため、阿波国に逼塞する。 その間、伊勢国の北畠晴具(高国の娘が嫁いでいた)に加え播磨守護代・浦上村宗の加勢をようやく得て、再挙兵した細川高国軍が中央進出のための地固めとして、播磨国内の各地を転戦、勝利を重ねていた。その播磨国へ迎撃に派遣された柳本賢治を享禄3年(1530年)6月の急死(暗殺とも)で失うと、高国と村宗の連合軍には8月に摂津への侵攻を許すなど、元長不在の堺公方派は戦局が悪くなり、ついには薬師寺国盛のような高国軍に降伏する者が現れるなど、窮地に追い込まれつつあった。 享禄4年(1531年)2月、細川六郎の懇願によって元長は復帰するも、事態は逼迫していた。播磨国からの転戦で進撃を見せてきた細川高国と浦上村宗の連合軍に苦戦したために、翌3月には堺公方派で河内国からの新参・木沢長政が京の防備を放棄し、撤退した為、高国軍の京都奪還を許してしまう。 目障りな堺公方を討滅せんと、意気盛んな高国軍に摂津南部まで迫られた窮地に際し、阿波国からの援軍8,000を得て、高国軍の先鋒に攻撃をした。しかし援軍を加えたとはいえ、堺に鎮座する足利義維を守るための戦力を半数以上も割かねばならぬ為、高国軍と真っ向から対峙するには少なく、元長の手腕に依存するところが大きかった(中嶋の戦い)。 戦局は戦線の膠着化を招いた。そして同年6月、高国軍の増援として現れた赤松政祐の裏切りにより事態は進展し、高国軍を壊滅させた(大物崩れ)。
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