退却後の英仏両国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/22 01:40 UTC 版)
「コーンウォリスの退却」の記事における「退却後の英仏両国」の解説
この退却は…それを指揮する人物の様々な能力とそれに等しい名誉、また同様に、最もすばらしい勝利の達成を表現している。 ナヴァル・クロニクル(英語版), Vol. VII, 20–25頁。 フランス艦隊が視界の外に消え、コーンウォリスは戦隊に命じて北西の風に向かって海峡を渡って、修理のためプリマスへ向かわせた。「フェートン」はフランス艦隊がいること、コーンウォリス自身は無事であることを伝える目的でブリッドポート卿に派遣された。しかしブリッドポートは、すでに15隻の戦列艦を率いて、キブロン湾からのフランス上陸(英語版)のための第二部隊として向かっていた。またイギリス艦隊の主力部隊は、コーンウォリスとヴィヤーレが交戦していた時には既にブレストの沖合にいた。コーンウォリスの戦隊の艦はすべて損害を受けており、特に「トライアンフ」と「マーズ」のそれは大きかった。「トライアンフ」は艦尾の大幅な修理が必要であった、戦闘中に切り払われていたからである。歴史家のエドワード・ペルハム・ブレントン(英語版)は、この戦闘には次のような意味があったとしている。それは、海事関連の設計家として有名なロバート・セッピングス(英語版)が、今後の戦列艦の設計として戦列艦の艦尾を丸くし、その後の戦いで、砲撃の射程を幅広くしたことである。「マーズ」は戦死者はおらず、負傷者も12人にとどまり、戦隊の他の艦には損害はなかった。 フランス艦隊は損害はほんのわずかで、29人の死傷にとどまった。ヴィヤーレは艦隊をなおも東に進め、パンマール岬を回って、オディエルヌ湾に入ってからここを北上し、ブレスト方向を目指した。この時は27時間も続く激しい強風にさらされ、フランス艦隊は南に分裂して、海岸線の向こう側へ散った。その後何日間か、ヴィヤーレはベル・イル島沖の停泊地で艦を再構成した、ここは6月8日にヴァンスが拘束されたところだった。艦隊が再集結して、ヴィヤーレは再び全艦に北に向けてブレストに帰着するように命じた。この艦隊は元々、ヴァンスの戦隊の危機に気付いて急いでブレストを出港したため、15日分の物資しか積んでおらず、海に出て10日が経過しており、ブレストに戻ることが優先されたからである。6月22日0時30分、フランス艦隊は海岸線の北に沿って航行する一方で、海峡艦隊が北西の方向に現れ、ブリッドポートは、フランス艦隊が南のキブロン湾のイギリス艦隊侵入の防御に向かい、そのためブレストを空けているのに気付いた。 ヴィヤーレは、新しく到着したイギリス艦隊が、自分たちのよりもかなりまさっていると考え、難を避けるためフランス沿岸を航行し、グロワ島周辺の防御の固い要塞へ向かって、この位置からブレストへ戻るつもりだった。ブリッドポートは艦隊にフランス艦隊を追跡するように指示を与え、この追跡は6月22日のまる1日、そして6月23日の早朝まで続いた。この時ブリッドポートの先頭艦は、陸地から離れたところでヴィヤーレ艦隊の後衛の落伍艦をつかまえた。グロワ島の海戦として知られるこの戦闘は、3隻の艦が追いついて攻撃し、フランス艦が降伏する前に大きな損害と死傷者を出した。その他の艦も損害を受けたが、8時37分に、イギリス艦隊の大部分はすでに戦闘をやめ、フランス艦隊は海岸に沿って散り散りになっていた。ブリッドポートは突如戦闘中止を命じ、イギリス艦に銘じて拿捕艦を集めて退かせた。この決断はその当時の士官や後世の歴史家からは大きな批判を受けている.。 フランスでは、コーンウォリスの戦隊に対するヴィヤーレの攻撃の失敗は、様々な要因から非難された。その中には、攻撃を仕掛けたフランス艦の艦長たちが、故意に命令に従わなかったことへの告訴や、艦をうまく戦術通りに操作できなかったことも含まれていた。現場にいた数人のフランス人士官も、北西の水辺線上に見えた艦は実はブリッドポートの艦隊であり、それこそが、フランス艦隊が交戦を避けた唯一の要因であると主張している。ヴィヤーレは多くの非難をゼレのジャン・マニャックにかぶせた、マニャックは早まって退却したことと命令に従わなかったことを告訴され、のちに軍法会議にかけられて、フランス海軍を辞した。イギリスでは、この戦闘はフランス革命戦争前期の最も著名な戦いとして祝福を受け、海軍本部にコーンウォリスが派遣した特使の節度ある行動によりその傾向はさらに強まった。コーンウォリスは、戦闘の絶頂期でフランスの総力を挙げた艦隊と対決したことについて、フランスが「マーズに対してかなり激しい攻撃を仕掛けた…それにより私はマーズの支援をしなければならなかった」と書かれている、しかし自艦の乗員についてはこう記している。 実際私はこの戦隊の艦長、士官、水兵、海兵そして兵士のすばらしい指揮に非常に感銘を受けるものである。彼ら将校や兵士は、今までの人生の中で得た中で最も偉大な喜びであり、敵方が我々の戦隊の攻撃のために送った30隻の艦に落胆するどころか、崇高な精神を示してくれた。我々の小戦隊は考えられる限り最も高い精神性を保持していた。通常の思慮深さでは彼らの武勇を解き放つことはできない、私は彼らのような人物に欠けているものなどは考えつかない。|ウィリアム・コーンウォリス中将の公式派遣 1795年6月23日 コーンウォリスは上下両院から感謝の議決をされたが、1795年10月に海軍本部から軽んじられた、海軍規則を巡る議論で後に軍法会議となり、1796年には西インド諸島への商船護送を、「ロイヤル・ソブリン」の損害と健康状態の悪化で棒に振ったのである。その年彼は退役したが、1801年にジョン・ジャーヴィス指揮下の海峡艦隊で任務を命じられ、その後5年間フランス大西洋艦隊の封鎖を行った。最も有名なのは1805年のトラファルガー戦役で、ホレーショ・ネルソン中将へ、ここぞという重大な時期に援軍を送った。イギリスの歴史家は、コーンウォリスの指揮と彼の隊の、一方的に形勢不利な海戦での戦いを高く評価している。1825年、ブレントンはコーンウォリスの退却は「我々の海軍史に見られるであろう、勇気と冷静さが結合した、まさにそのすばらしい行為のひとつ」を書いており、また1827年に、ウィリアム・ジェームズは「コーンウォリス中将による見事な退却」の中でこれに関して「それぞれ異なる艦の結合による小戦隊によりあらわされた精神、3倍もの優勢にある敵艦を打ち破るだけの力に支えられ、敵がいる時のイギリスの水兵がつもとる行動を取らせた」現代の歴史家であるロバート・ガーディナーはこの感情に共鳴し、1998年に「コーンウォリスの退却は、他のイギリス海軍が、実際に勝利を納めた海戦同様に有名になった」と書いている。
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