開戦に至る経緯とは? わかりやすく解説

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開戦に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「開戦に至る経緯」の解説

四侯会議崩壊以後薩摩藩長州藩と共に武力倒幕志向するようになり、朝廷への工作活発化させた。慶応3年1867年10月13日14日討幕の密勅薩摩長州下される。 (訳文)詔を下す源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年幕府権威笠に着て一族兵力強大なことをたよりにして、みだりに忠実善良な人々殺傷し天皇命令無視してきた。そしてついには先帝孝明天皇)が下した詔勅曲解して恐縮するともなく人民苦境に陥れて顧みるともない。この罪悪極まれば、今にも日本転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。朕(明治天皇)今、人民父母となってこの賊臣排斥しなければいかにして、上に向かって先帝の霊に謝罪し、下に向かって人民の深いうらみに報いることが出来だろうか。これこそが、朕の憂い憤る理由である。本来であれば先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して賊臣である慶喜殺害し時勢一転させる大きな手柄をあげ、人民平穏取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。 これを受け、西国東国同時挙兵する構想練られた。 しかし、10月14日江戸幕府第15代将軍徳川慶喜日本の統治返上明治天皇奏上、翌15日勅許された(大政奉還)。『討幕実行延期沙汰書』が10月21日薩長両藩に対し下され討幕の密勅延期となった。既に大政奉還なされて幕府政権朝廷返上したために討幕名分立たず薩摩側も東国に於ける挙兵中止命令江戸薩摩藩邸に伝えざるを得なかった。慶喜10月24日には征夷大将軍職の辞任朝廷申し出る朝廷上表勅許あわせて国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜委任し将軍職暫時従来通りとした。つまり実質的に大政奉還」は「空文」と化し実質として慶喜による政権掌握が続くこととなってしまった。慶喜狙いは、公議政体論のもと徳川宗家首班となる新体制作ることにあったと言われる土佐藩士乾退助板垣退助)は、神武肇国の基に戻す王政復古(皇回復論)を唱え大政奉還空文化し幕府体勢維持される事を懸念して後藤象二郎らの献策による公議政体論真っ向から反対した。(皇回復論はのちに自由民権運動帰結する) 大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏馬上天下取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府罪悪天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職退かしめんとすは、迂闊極まれり乾退助 しかし、土佐藩最高指導者である山内容堂は「退助また暴論を吐くか」と笑って取り合わず徳川恩顧の上士の中で大政奉還論が主流占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられ反対意見貫いたことで乾は全役職剥奪され失脚した。 さらに、予定され正式な諸侯会議開催難航雄藩5藩(薩摩藩福井藩尾張藩土佐藩広島藩)は、業を煮やし12月9日朝廷働きかけ公家岩倉具視奏上により明治天皇王政復古の大号令煥発した。その内容は、幕府廃止新体制樹立宣言されたもので、新体制による朝議では、薩摩藩主導により慶喜対し内大臣辞職幕府領地の朝廷への返納決定し(辞官納地)、禁門の変蛤御門の変以来京都追われていた長州藩復権認めた。こうして、禁門の変では孝明天皇がいる御所向かって砲撃をし、朝敵宣告受けていた長州藩主毛利敬親は、明治天皇により朝敵認定解除された。 慶喜は辞官納地拒否したものの、表向きは「恭順配下暴発抑えるため」と称し二条城から大坂城移った。しかし、実際に経済的軍事的に重要拠点である大坂押さえその後の政局において幕府側が優位に立とう策略したと見られる。さらに12月16日慶喜各国公使対し王政復古非難条約の履行各国との交際は、天皇ではなく自分権限下にあると宣言新政府内においても山内容堂土佐藩)・松平春嶽福井藩)ら公議政体派が盛り返し徳川側への一方的な領地返上撤回され新政府財源のため、諸侯一般に経費課す名目改められた)、年末には慶喜再上洛のうえ議定就任することが確定するなど、乾らが憂慮し通り辞官納地事実上骨抜きとなりつつあった。 江戸において、旗本御家人中心とする幕臣佐幕派諸藩挑発するため、薩摩藩士・西郷隆盛らは、はじめ乾が土佐藩邸に匿い、のち薩土討幕の密約に基づき薩摩藩邸に移管していた、中村勇吉相楽総三勤王浪士達を用いて出流山をはじめとする関東各地での挙兵江戸撹乱作戦開始毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒徒党組んで江戸商家押し入った日本橋公儀御用達播磨屋蔵前札差伊勢屋本郷高崎屋といった大店次々と襲われ家人近隣の住民惨殺されたりした。そして、必ず三田薩摩藩邸に逃げ込んだ江戸市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。三田薩摩藩邸を根城としていた浪士集団、後の赤報隊は、総勢500名ほどとされ、そのうち多くは、金で買われ文字通りの、人別帳からも外され無頼の徒であり、強盗殺戮放火などを好んでやるような輩であった幕府庄内藩江戸市中取締命じたが、時の政治状況わきまえ浪士刺激しないようにした。そのため、活動益々激化し江戸だけでなく、野州相模甲州といった周辺地域まで拡大していった。12月23日には江戸城西ノ丸焼失。これは薩摩通じた奥女中犯行噂された。同日夜、江戸市中警備にあたっていた庄内藩巡邏屯所への発砲事件発生、これも同藩が関与したものとされ、ついに老中稲葉正邦庄内藩岩槻藩鯖江藩などから成る幕府軍編成し江戸薩摩藩邸を襲撃させる。12月25日幕府軍三田薩摩藩邸を包囲薩摩藩下手人引き渡し拒否したのを受けて薩摩藩邸を砲撃した江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件一報は、江戸において幕府側と薩摩藩交戦状態に入ったという解釈とともに大坂城幕府首脳のもとにもたらされた。 一連の事件大坂旧幕府勢力激高させ、勢いづく会津藩桑名藩らの諸藩兵を慶喜制止することができなかった。慶喜朝廷薩摩藩罪状訴え上表討薩表)を提出奸臣たる薩摩藩掃討掲げて配下幕府歩兵隊会津藩桑名藩主力とした軍勢総督大多喜藩松平正質)を京都へ向け行軍させた。 臣慶喜謹んで去月九日以来御事体を恐察奉り候得ば、一々朝廷御真意にこれ無く、全く松平修理大夫薩摩藩島津茂久奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸長崎野州相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来唱導により、東西饗応し、皇国乱り所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文奸臣御引渡し御座候御沙汰下され万一採用成らず候はゞ、止むを得ず誅戮加へ申すべく候。 — 討薩表部分

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開戦に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 08:25 UTC 版)

第一次シク戦争」の記事における「開戦に至る経緯」の解説

19世紀前半シク王国創始者ランジート・シングパンジャーブ越え北西インド一帯にまたがる広大な領土獲得したシク王国イギリスの支配排し、その領土通過許さず19世紀において、イギリスとの第三次マラーター戦争マラーター同盟滅亡したのちも、王国インド唯一の独立国としての地位保持した1839年6月27日ランジート・シング首都ラホール死亡した彼の死後王国政治不安に陥り、深刻な後継者争いに陥り、数多く支配者らが死亡した。 こうして、1843年9月21日ランジート・シングの末の息子ドゥリープ・シング王位渡ったが、まだ5歳少年であった一連の内乱台頭したカールサー呼ばれる強力な軍団政権握った。彼らは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった。 また一方でイギリスイラン方面からのロシアの脅威備えグレート・ゲーム参照)、1838年アフガン戦争起こし、これにはシク王国味方したが、1842年1月大敗喫していた。そのため、イギリスアフガニスタン側の領土欲し1832年以降から介入していたシンド地方を、1839年領土保証するというシンドアミールらとの条約にもかかわらず1843年併合していた。 分裂状態にあるシク王国もその例外ではなくイギリス1809年ランジート・シング結んだ不可侵条約アムリトサル条約忠実に守られていたにもかかわらず、その領土を狙うようになった1845年秋、イギリスボンベイから開架用のボートサトレジ川岸のフィールーズプルへと送った、という噂が流れた補強部隊のための兵舎前線基地設置されるとともに増強のための連隊パンジャーブ派遣されると、好戦的なカールサーらはイギリス侵略意図して対抗策出た。ただ、シク領主らがすでに裏切ってイギリス内通していることは知る由もなかった。

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開戦に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:53 UTC 版)

「長篠の戦い」記事における「開戦に至る経緯」の解説

甲斐国信濃国領する武田氏は、永禄年間駿河今川氏領国併合し駿河侵攻)、元亀年間には遠江国三河国方面侵攻していた。その間美濃国掌握した尾張国織田信長足利義昭擁して上洛しており、当初武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪になると、元亀3年に反信長勢力糾合した義昭挙兵する。そこで義昭応じた武田信玄が、信長同盟国である徳川家康領国三河侵攻西上作戦したため織田氏武田氏手切れとなった。 しかし、信玄急死によって西上作戦頓挫し武田勢本国撤兵余儀なくされた。一方信長は、朝倉氏浅井氏ら反信長勢力滅ぼして将軍義昭京都から追放自身が「天下人としての地位引き継いで台頭した武田氏撤兵に伴い三河徳川家康武田領国に対して反攻開始し三河遠江失地回復努めた天正元年1573年8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族連れて徳川方へ再属すると、家康からは武田家より奪還したばかりの長篠城配された(つまり対武田前線置かれた)。 武田氏後継者となった勝頼は、遠江三河を再掌握すべく反撃開始奥平氏離反から2年後天正3年1575年4月には大軍指揮執り三河侵攻し5月には長篠城包囲した。これにより、長篠設楽原における武田軍織田徳川連合軍衝突至ったまた、大岡弥四郎大賀とも)の内通事件が、天正3年1575年)の事件であるとする説が出され大岡調略成功した武田軍岡崎城目指したものの、内通発覚して大岡殺害されたために長篠方面向き変えた可能性がある。

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