開戦に至る経緯
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四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年(1867年)10月13日、14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下される。 (訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ。 これを受け、西国と東国で同時挙兵する構想が練られた。 しかし、10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。『討幕の実行延期の沙汰書』が10月21日、薩長両藩に対し下され、討幕の密勅は延期となった。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために討幕の名分が立たず、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えざるを得なかった。慶喜は10月24日には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に「大政奉還」は「空文」と化し実質として慶喜による政権掌握が続くこととなってしまった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。 土佐藩士・乾退助(板垣退助)は、神武肇国の基に戻す王政復古(皇権回復論)を唱え、大政奉還が空文化し幕府体勢が維持される事を懸念して、後藤象二郎らの献策による公議政体論に真っ向から反対した。(皇権回復論はのちに自由民権運動に帰結する) 大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。乾退助 しかし、土佐藩の最高指導者である山内容堂は「退助また暴論を吐くか」と笑って取り合わず、徳川恩顧の上士の中で大政奉還論が主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられ、反対意見を貫いたことで乾は全役職を剥奪され失脚した。 さらに、予定された正式な諸侯会議の開催が難航。雄藩5藩(薩摩藩、福井藩、尾張藩、土佐藩、広島藩)は、業を煮やして12月9日に朝廷に働きかけ、公家・岩倉具視の奏上により明治天皇が王政復古の大号令を煥発した。その内容は、幕府廃止と新体制樹立を宣言されたもので、新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変(蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では孝明天皇がいる御所に向かって砲撃をし、朝敵の宣告を受けていた長州藩主・毛利敬親は、明治天皇により朝敵の認定を解除された。 慶喜は辞官納地を拒否したものの、表向きは「恭順し配下の暴発を抑えるため」と称し、二条城から大坂城に移った。しかし、実際には経済的・軍事的に重要拠点である大坂を押さえ、その後の政局において幕府側が優位に立とうと策略したと見られる。さらに12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は、天皇ではなく自分の権限下にあると宣言。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平春嶽(福井藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、乾らが憂慮した通り辞官納地は事実上骨抜きとなりつつあった。 江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発するため、薩摩藩士・西郷隆盛らは、はじめ乾が土佐藩邸に匿い、のち薩土討幕の密約に基づき薩摩藩邸に移管していた、中村勇吉、相楽総三ら勤王派浪士達を用いて、出流山をはじめとする関東各地での挙兵や江戸の撹乱作戦を開始。毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入った。日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして、必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ。江戸の市民はこの浪士集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。三田の薩摩藩邸を根城としていた浪士集団、後の赤報隊は、総勢500名ほどとされ、そのうちの多くは、金で買われた文字通りの、人別帳からも外された無頼の徒であり、強盗、殺戮、放火などを好んでやるような輩であった。幕府は庄内藩に江戸市中取締を命じたが、時の政治状況をわきまえ、浪士を刺激しないようにした。そのため、活動は益々激化し、江戸だけでなく、野州、相模、甲州といった周辺地域まで拡大していった。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これは薩摩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、ついに老中・稲葉正邦は庄内藩、岩槻藩、鯖江藩などから成る幕府軍を編成し、江戸の薩摩藩邸を襲撃させる。12月25日、幕府軍は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の引き渡しを拒否したのを受けて、薩摩藩邸を砲撃した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。 一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩、桑名藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大多喜藩主松平正質)を京都へ向け行軍させた。 臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。 — 討薩表(部分)
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開戦に至る経緯
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19世紀前半、シク王国の創始者ランジート・シングはパンジャーブを越え、北西インド一帯にまたがる広大な領土を獲得した。シク王国はイギリスの支配を排し、その領土通過を許さず、19世紀において、イギリスとの第三次マラーター戦争でマラーター同盟が滅亡したのちも、王国はインドで唯一の独立国としての地位を保持した。 1839年6月27日、ランジート・シングが首都ラホールで死亡した。彼の死後、王国は政治不安に陥り、深刻な後継者争いに陥り、数多くの支配者らが死亡した。 こうして、1843年9月21日にランジート・シングの末の息子ドゥリープ・シングに王位が渡ったが、まだ5歳の少年であった。一連の内乱で台頭したカールサーと呼ばれると強力な軍団が政権を握った。彼らは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった。 また一方で、イギリスはイラン方面からのロシアの脅威に備え(グレート・ゲームを参照)、1838年にアフガン戦争を起こし、これにはシク王国も味方したが、1842年1月に大敗を喫していた。そのため、イギリスはアフガニスタン側の領土を欲し、1832年以降から介入していたシンド地方を、1839年の領土を保証するというシンドのアミールらとの条約にもかかわらず、1843年に併合していた。 分裂状態にあるシク王国もその例外ではなく、イギリスは1809年にランジート・シングと結んだ不可侵条約アムリトサル条約が忠実に守られていたにもかかわらず、その領土を狙うようになった。 1845年秋、イギリスがボンベイから開架用のボートをサトレジ川岸のフィールーズプルへと送った、という噂が流れた。補強部隊のための兵舎が前線基地に設置されるとともに、増強のための連隊がパンジャーブに派遣されると、好戦的なカールサーらはイギリスの侵略を意図して対抗策に出た。ただ、シク領主らがすでに裏切ってイギリスと内通していることは知る由もなかった。
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開戦に至る経緯
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甲斐国・信濃国を領する武田氏は、永禄年間に駿河の今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へ侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪になると、元亀3年に反信長勢力を糾合した義昭が挙兵する。そこで義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。 しかし、信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。 武田氏の撤兵に伴い三河の徳川家康は武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属すると、家康からは武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。 武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。また、大岡弥四郎(大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。
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