開戦と停戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 05:59 UTC 版)
1969年3月2日、極東のウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)でソ連の国境警備隊と人民解放軍による衝突が起こった。 これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張していた。しかし、中国の歴史家のほとんどは中国側が奇襲を計画したことを認めている。 中国側資料によると、ソ連は上級将校を含む58人の死者と94人の負傷者を出した。中国の損失は29人が死亡したとされる。ソ連側の資料によれば、中国軍の死者は248人以上に及び、ソ連の国境警備兵は32人が殺され、14人が負傷したとされる。なお、この際に1輌のT-62が中国側に鹵獲され(中国人民革命軍事博物館で展示されている)、国産戦車である69式戦車の開発に役立てられた。 7月8日には中ソ両軍が黒竜江省同江県に属する黒竜江(アムール川)の中州・八岔島(ゴルジンスキー島)で交戦し、8月13日には新疆ウイグル自治区タルバガタイ(塔城)地区チャガントカイ(裕民)県の鉄列克提(テレクチ)でも武力衝突が起きるなど、極東及び中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。 こうした最中、1969年9月に北ベトナムのホー・チ・ミン国家主席(労働党主席)が死去し、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイでの葬儀に列席した後北京に立ち寄り中国の周恩来首相と会談して政治解決の道を探り、軍事的緊張は緩和された。 国境問題は先延ばしされたが、最終的な解決には至らず両国とも国境の兵力配置を続けた。
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