開戦 - 1942年中旬
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「ボイシ (軽巡洋艦)」の記事における「開戦 - 1942年中旬」の解説
1941年12月8日の太平洋戦争勃発時、ボイシはセブ島沖にあった。日本軍は比島作戦において航空撃滅戦を優先する。アジア艦隊(英語版)(司令長官トーマス・C・ハート提督)は潜水艦を除く大部分の艦艇を蘭印やオーストラリア方面に避退させた。マニラにいた第5任務部隊司令官のグラスフォード(英語版)少将は空路でパナイ島南岸のイロイロに移動し、そこで重巡ヒューストン (USS Houston, CA-30)に将旗を掲げた。またセブにいたボイシも呼び戻され、ヒューストンに合流する。ヒューストンとボイシはスールー海を南下し、マカッサル海峡に向かった。ボイシは東インド諸島で第5任務部隊に加わり、アジア太平洋艦隊の軽巡洋艦マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) に合流する。 1942年1月11日、日本軍は蘭印作戦によりボルネオ島北東部タラカン島に上陸し、翌12日に守備隊は降伏、掃討作戦、油田占領、飛行場設営を実施した。連合軍は日本軍の次の目標を同島東岸のバリクパパンと予測し、潜水艦部隊を配置した。さらに1月20日、第5任務部隊司令官のグラスフォード少将に出撃を命じ、グラスフォード少将はボイシに将旗を掲げた。第5任務部隊(軽巡ボイシ、軽巡マーブルヘッド、駆逐艦ジョン・D・フォード(英語版)、ポープ、パロット、ポールジョーンズ)はティモール島クパンを出撃する。この第5任務部隊が、現時点で連合軍艦隊が攻勢的作戦に使用できる、精一杯の勢力だった。目標はバリクパパン沖に集結した日本の輸送船団と護衛部隊(指揮官西村祥治第四水雷戦隊司令官)である。しかし、ボイシは1月21日にセプ海峡(英語版)で海図未記載の暗礁に衝突し、マーブルヘッドも機関不調で後退して後退、バリクパパン沖海戦には参加できなくなった。同海戦で活躍したのは、軽巡2隻脱落後も進撃を続けた駆逐艦4隻だった。 ボイシはコロンボおよびボンベイで応急修理の後、メア・アイランド海軍造船所へ向かった。修理が完了すると6月22日に出航し、船団護衛でニュージーランドのオークランドに向かう。護衛任務終了後は真珠湾に帰投し、ガダルカナル島上陸に際して日本軍を攪乱する目的で7月31日から8月10日まで日本の勢力圏内を巡航した。8月にはフィジーおよびニューヘブリディーズ諸島への輸送船団を護衛し、9月14日から18日までガダルカナル島へ上陸する海兵隊の支援を行った。
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