開戦からの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 01:37 UTC 版)
第一次世界大戦の開戦以来、英国海軍の「大艦隊」Grand Fleet(グランド・フリート)(1914年8月本国艦隊を戦時編成により改編。司令長官はジェリコー大将)はオークニー諸島のスカパ・フローを根拠地とした。ビーティー率いる巡洋戦艦部隊はフォース湾奥の要塞基地ロサイスを根拠地として、「大艦隊」とは独立して軍令部から指揮を受けていた。 ジェリコーは「静かなる男(サイレント・ジャック)」の異名を持ち、論理的すぎる提督でもあった。ジェリコーは「大艦隊」をむやみに出撃させることはなく、現存艦隊主義を取り、敵の大洋艦隊の殲滅を必ずしも追求しなかった。イギリス海軍の規模は、国力が劣るドイツの大洋艦隊を戦闘が無くとも抑え込んでいたからである。 これに対するドイツ海軍大洋艦隊司令長官フリードリヒ・フォン・インゲノール大将は、皇帝ヴィルヘルム2世が軍令部を通じて作戦に口を出しており、思い通りに艦隊を動かすことができなかった。それでも彼は与えられた権限の中で戦力を可能な限り有効に使うべく、ヒッパー提督の偵察部隊(巡洋戦艦部隊)でイギリス本土を砲撃し、イギリス国民の士気を挫く作戦を行った。1914年11月と12月に行われた2回の出撃は成功し、沿岸都市に損害を与えた。しかし1915年1月に行われた3回目の出撃では、ビーティー率いる巡洋戦艦部隊が待ち伏せしており、ドッガー・バンク海戦が発生した。この海戦ではドイツ部隊は装甲巡洋艦ブリュッヒャーを失いつつも脱出に成功し、英艦隊は旗艦ライオンが脱落した。 インゲノールは責任をとり、1915年2月2日に職を辞した。またドイツ海軍はこの海戦以降1年ほど北海では大きな動きを止めた代わりに、潜水艦による通商破壊戦を強化したが、1915年5月にルシタニア号事件が発生してこれも一旦中止した。バルト海ではドイツ艦隊が露国バルト海艦隊をリガに封じ込めて制海権を確保した。 イギリス海軍は地中海でガリポリ上陸作戦を支援し、前弩級戦艦5隻を失った。しかしイギリス海軍戦力の優勢は変わらず、さらに国力の差により徐々に差が開いていった。1915年中にイギリス海軍はクイーン・エリザベス級戦艦3隻が竣工し、翌年には残りの2隻とリヴェンジ級戦艦が竣工する予定であったが、ドイツ海軍は1915年でも巡洋戦艦リュッツオウ1隻、翌年も戦艦2隻が竣工するだけであった。
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