開戦から「降伏」までとは? わかりやすく解説

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開戦から「降伏」まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 04:49 UTC 版)

紀州征伐」の記事における「開戦から「降伏」まで」の解説

同年2月2日以前から織田方に加勢していた根来衆加えて雑賀三組(三緘)の協力得られることになった ため、信長雑賀残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長9日安土発して上洛膝下近江の兵に加えて嫡男織田信忠率い尾張美濃軍勢北畠信雄神戸信孝織田信包配下伊勢軍勢、さらに畿内越前若狭丹後丹波播磨の兵も合流して13日京都出発した16日には和泉入り、翌17日雑賀衆前衛拠点がある貝塚攻撃したが、守備兵前夜のうちに海路紀伊退却していたので空振り終わった同日根来衆合流して18日佐野22日には志立(信達・現泉南市)に本陣移した織田勢は山手浜手二手それぞれ30,000人の兵を投入して侵攻開始した。その陣容は、山手根来衆雑賀三組を先導役として佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重別所長治・同重宗、浜手滝川一益明智光秀長岡藤孝丹羽長秀筒井順慶大和衆に加えて織田信忠北畠信雄神戸信孝織田信包である。 浜手織田勢は淡輪(現岬町)から三手分かれて孝子峠越え雑賀側の防衛線を突破して南下し中野城包囲した2月28日信長淡輪本陣進め同日中野城織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日織田勢は平井鈴木孫一居館現和山市)を攻撃した山手織田勢は信達から風吹峠を越えて根来進み紀ノ川渡って東側から雑賀迫った。これに対し雑賀衆雑賀城本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城上下砦・宇須山砦中津城、南に甲崎砦・玉津島砦布引浜の砦を築き川岸には柵を設けて防衛線を構築した日時特定できない2月24日以降山手先鋒堀秀政勢が雑賀川の渡河試みた。『紀伊国名所図会巻之二雑賀合戦によれば雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・壺・槍先沈めておいて渡河妨害図った織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られ前進できず、また川を越えた者も湿地帯動き鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊組んで間断なく鉄砲狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害受けて退却したその後ゲリラ戦持ち込まれ戦局膠着状態となったが、鈴木孫一土橋若大夫・粟三郎大夫ら7人は連署し誓紙差し出し信長大坂表での事態配慮加えることを条件降伏誓ったため、3月15日信長朱印状出して赦免した21日信長陣払いして京都引き揚げた。 だが、足利義昭毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した。 信長引き揚げるに当たり、雑賀衆再起備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張駐留させた。 だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し信長と戦うことになる。

※この「開戦から「降伏」まで」の解説は、「紀州征伐」の解説の一部です。
「開戦から「降伏」まで」を含む「紀州征伐」の記事については、「紀州征伐」の概要を参照ください。

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