開戦と進撃
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212年、曹操と孫権が揚州をめぐって戦闘状態となり(濡須口の戦い)、孫権は劉備に援軍を求めた。また荊州では楽進と関羽が青泥で対陣していた。そこで劉備は張魯は城に篭っており心配は要らないとして、劉璋から兵と軍需物資を借り、東へ行こうとしたが、劉璋からの援助は要求した半分にも満たないわずかなものであったため、劉備と劉璋は不仲になった。 この時、劉備の帰国の意図を疑った張松は劉備と法正に手紙を送ろうとしたが、張松の兄で広漢太守の張粛に手紙を発見され、張松らの企みは劉璋の知るところとなり、張松は誅殺された。そこで、劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋の武将である楊懐と高沛を斬り殺して、白水関を占領した。劉備は葭萌城を霍峻に守らせ、劉璋から借りた将兵とその妻子を人質にして、黄忠や卓膺や魏延らとともに、劉璋の本拠地の成都へと向けて侵攻を始めた。 劉備の進撃を防ぐために劉璋は張任・冷苞・劉璝・鄧賢・呉懿(呉壱)らを派遣した。しかし劉備本軍は冷苞・劉璝・張任・鄧賢らを破り、涪城を占拠し、綿竹の総指揮官である李厳や費観や呉懿ら劉璋軍の武将が劉備に投降するなど、劉備軍が優勢なまま戦況は進んだ。なかでも黄忠は常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは三軍の筆頭だったという。しかし劉璋軍の張任と劉循は雒城に立て籠もって徹底抗戦し、張任は雒城と運命を共にしたが、劉備軍もこの戦いで龐統を流れ矢で失い、雒城を陥落させるのに1年以上もかかるなど大いに苦戦した。 劉璋軍の郡県の長が劉備に降伏する中、広漢県を守る黄権は堅く門を閉ざして防備を怠らず、終戦まで広漢県を守り通した。また、葭萌城を守る霍峻は劉璋の部将の扶禁・向存ら一万余人の軍勢に包囲されたが、1年に渡り守り通す。そして霍峻は数百の軍勢の中から精鋭を選抜し、城外へ出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。 一方、劉備が葭萌を出て劉璋攻撃を決定すると荊州にいた諸葛亮を劉備は召しだし、留守を関羽に任せ、劉備と呼応する形で張飛や趙雲らを率いて長江を遡り、巴東郡を降して巴郡に入った。劉璋の武将である巴郡太守趙筰がこれを拒んだが、張飛はこれを破り趙筰の部将厳顔は張飛と戦って生け捕られた。厳顔が毅然とした態度を示したため張飛はその人物を評価して、厳顔を賓客として厚遇した。張飛らは手分けして郡県を平定することとなり、趙雲は自ら江州で分かれて江陽・犍為を平定した。張飛は巴西を攻撃し、巴西の功曹である龔諶が張飛に降伏し張飛を迎えいれた。諸葛亮は徳陽を平定し、劉璋は司馬の張裔に諸葛亮を拒ませたが柏下において敗れ、張裔は撤退した。緒郡県を制圧した張飛らは成都に向かった。諸葛亮、張飛、劉封らの軍勢は劉璋軍との全ての戦いで勝利したとある。 夏ごろ劉備は雒城を攻略した後、諸葛亮・張飛らと合流して成都を包囲した。この時、蜀郡太守の許靖が劉璋を見捨て、城を脱出して降伏しようとしたが、発覚し捕らえられた。事態が逼迫していたため、劉璋は許靖を処罰しなかった。
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