開戦と進撃とは? わかりやすく解説

開戦と進撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:32 UTC 版)

劉備の入蜀」の記事における「開戦と進撃」の解説

212年曹操孫権揚州めぐって戦闘態となり(濡須口の戦い)、孫権劉備援軍求めた。また荊州では楽進関羽青泥対陣していた。そこで劉備張魯は城に篭っており心配は要らないとして、劉璋から兵と軍需物資借り東へ行こうとしたが、劉璋からの援助要求した半分にも満たないわずかなものであったため、劉備劉璋不仲になった。 この時、劉備帰国意図疑った張松劉備法正手紙送ろうとしたが、張松の兄で広漢太守張粛手紙発見され張松らの企み劉璋の知るところとなり、張松誅殺された。そこで、劉備龐統策略用いて白水関を守る劉璋武将である楊懐高沛斬り殺して、白水関を占領した劉備葭萌城を霍峻に守らせ、劉璋から借りた将兵とその妻子人質にして、黄忠卓膺魏延とともに劉璋本拠地成都へと向けて侵攻始めた劉備進撃を防ぐために劉璋張任冷苞劉璝鄧賢呉懿(呉壱)らを派遣した。しかし劉備本軍冷苞劉璝張任鄧賢らを破り涪城占拠し綿竹総指揮官である李厳費観呉懿劉璋軍の武将劉備投降するなど、劉備軍優勢なまま戦況進んだなかでも黄忠は常に先駆けて敵の陣地攻め落とすなど、その勇猛さ三軍筆頭だったという。しかし劉璋軍の張任劉循は雒城に立て籠もって徹底抗戦し張任は雒城と運命を共にしたが、劉備軍もこの戦いで龐統流れ矢失い、雒城を陥落させるのに1年以上もかかるなど大い苦戦した劉璋軍の郡県の長が劉備降伏する中、広漢県を守る黄権堅く門を閉ざして防備怠らず終戦まで広漢県守り通したまた、葭萌城を守る霍峻劉璋部将の扶禁・向存ら一万余人軍勢包囲されたが、1年渡り守り通す。そして霍峻数百軍勢の中から精鋭選抜し城外出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。 一方劉備葭萌出て劉璋攻撃決定する荊州にいた諸葛亮劉備召しだし、留守関羽任せ劉備呼応する形で張飛趙雲らを率いて長江遡り巴東郡降して巴郡入った劉璋武将である巴郡太守趙筰がこれを拒んだが、張飛はこれを破り趙筰部将厳顔張飛戦って生け捕られた。厳顔毅然とした態度示したため張飛その人物を評価して厳顔賓客として厚遇した張飛らは手分けして郡県を平定することとなり、趙雲は自ら江州分かれて江陽犍為平定した。張飛巴西攻撃し巴西の功曹である龔諶が張飛降伏し張飛迎えいれた。諸葛亮徳陽平定し劉璋司馬張裔諸葛亮を拒ませたが柏下において敗れ張裔撤退した。緒郡県を制圧した張飛らは成都向かった諸葛亮張飛劉封らの軍勢劉璋軍との全ての戦いで勝利したとある。 夏ごろ劉備は雒城を攻略した後、諸葛亮張飛らと合流して成都包囲した。この時、蜀郡太守許靖劉璋見捨て、城を脱出して降伏しようとしたが、発覚し捕らえられた。事態逼迫していたため、劉璋許靖処罰しなかった。

※この「開戦と進撃」の解説は、「劉備の入蜀」の解説の一部です。
「開戦と進撃」を含む「劉備の入蜀」の記事については、「劉備の入蜀」の概要を参照ください。

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