蜂起、開戦と停戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:07 UTC 版)
「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の記事における「蜂起、開戦と停戦」の解説
1409年5月、第二次ジェマイティヤ蜂起が勃発した。これはジェマイティヤ人がドイツ騎士団による支配を嫌って起こしたもので、ヴィータウタスは裏で自分の将軍を送り込み指揮させるなどして反乱を支援していた。これを発端に公然とドイツ騎士団とリトアニアの衝突がはじまると、ポーランドのヨガイラはリトアニアを支援し、ドイツ騎士団に自らの参戦をちらつかせて脅迫した。ジェマイティヤから反抗勢力を追い払ったドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンは、8月6日にポーランドとリトアニアへ宣戦布告した。ドイツ騎士団は各個撃破を狙い、ポーランド領のヴィエルコポルスカおよびクヤフスキに奇襲侵攻した。彼らはドブジンの城塞を焼き、14日の包囲の末にボブロフスキを攻略し、ブィドゴシュチュをはじめいくつかの都市を奪取した。これに対しポーランド軍は反撃に出てヴィドゴシュチュを奪回した。ジェマイティヤ人はメーメル(現クライペダ)のドイツ騎士団城塞を攻撃した。ただ、ここまでの戦争では両陣営とも充分な戦争の準備が整っておらず、全面戦争とまでは至っていなかった。 ローマ王ヴェンツェルの仲介により、1409年10月8日に停戦が結ばれた。有効期限は1410年6月24日とされた。両陣営はこの時間で新たな戦争への準備を進め、国内から軍を集め外交戦を繰り広げた。また互いに書簡を送りあい、相手のさまざまな不正行為やキリスト教を脅かす行為を非難した。ドイツ騎士団から6万フローリンを受け取ったヴェンツェルは、ジェマイティヤは完全にドイツ騎士団のものと宣言し、ドブジンだけをポーランドに返還させた。またドイツ騎士団は、ヴェンツェルの弟でモルダヴィアへの領土的野心のために騎士団の力を借りようとしていたハンガリー王ジグムンドに30万ドゥカートを支払った。これをうけてジグムンドはリトアニア大公であるヴィータウタスに王冠をちらつかせて懐柔し、ポーランド・リトアニア間の同盟を解体させようとした。もしこれにヴィータウタスが飛びついたとしたら、それは1392年のオストルフ合意に背くものであり、ポーランドとリトアニアの間に再び不和が生まれるのは確実だった。これと同じころ、ヴィータウタスはリヴォニア騎士団と停戦を結ぶことに成功していた。
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