ナルボンヌの歴史とは? わかりやすく解説

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ナルボンヌの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 16:53 UTC 版)

ナルボンヌ」の記事における「ナルボンヌの歴史」の解説

ナルボンヌの歴史は、紀元前118年共和政ローマ執政官務めたクィントゥス・マルキウス・レクスQuintus Marcius Rex)が建設した植民市コロニア・ナルボ・マルティウス(Colonia Narbo Martius)から始まったグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスローマ植民地基盤として、プロヴァンスからヒスパニア現在のイベリア半島一帯)へかけて続くローマ街道建設始めたこの道彼の名前をとって、ドミティア街道Via Domitia)と名付けられた。ナルボンヌイタリア半島ヒスパニアを結ぶドミティア街道アクィタニア街道(Via Aquitania)がつながった所に位置したため、地理的に非常に重要な交差点にあったガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスらの元老院派との内戦に際してマッシリア(現:マルセイユ)が元老院派に組してカエサル派へ戦闘起こした間、カエサルナルボンヌベテラン軍人たち定住させ、その港を開発しようとした。政治的にナルボンヌマッシリアへの橋頭堡としての重要性得た。 後に、地中海沿いのガリア南部地区は「ガリア・ナルボネンシス」という名前をつけられナルボンヌはその首都とされ、ローマ強力な管理の元、都市経済的に発展していった。 12世紀には、ナルボンヌ宮廷宮廷風恋愛精神もたれた文化的な中心地1つを担う。1112世紀には、ナルボンヌ重要なユダヤ人聖書解釈学本拠地となり、それはツァルファティートシュアディート普及発達重要な役割果たした14世紀に入るとナルボンヌ様々な理由のために衰退してゆく。原因のひとつは、オード川オード県はこの川の名因む)の変化により、オード川氾濫し川底ドロによって船の航行困難になってしまったこと。また時間とともにオード川流れ沈殿物の影響変動し、また地中海海面が少し上昇したことで、沈泥川の流れ絶たれたためにナルボンヌ海港としての役割を果たすことは難しくなってしまう。 16世紀に入るとナルボンヌ人々貿易ルート確保するためにロビーヌ運河フランス語版建設という大規模な工事とりかかった。(ロビーヌ運河1787年ミディ運河次にロイヤル運河接続された)。 19世紀には、フランス南部運河系は、拡大する鉄道網との競争入ったが、栄えワイン取引のために若干重要性を保つった。それゆえに、ローマ時代からの低下にもかかわらずナルボンヌはなんとか取引ルートとしてより限られた重要性しがみつくことができた。

※この「ナルボンヌの歴史」の解説は、「ナルボンヌ」の解説の一部です。
「ナルボンヌの歴史」を含む「ナルボンヌ」の記事については、「ナルボンヌ」の概要を参照ください。

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