ナルボンヌ降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 06:08 UTC 版)
しかしアンダルスの情勢が不安定になるにつれ、ナルボンヌ市はアンダルスからの補給を受けられなくなっていた。756年、イベリア半島の支配者ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーンはサラゴサで発生した反乱を鎮圧し、すぐさま南方から侵攻してきたベルベル軍への対応に向かったが、ムサラの戦いで敗れまもなく殺害された。政権を奪いコルドバ首長国を建てたアブド・アッラフマーン1世は北西イベリアやセプティマニアの情勢への対処を後回しにしたため、この地域は事実上指導者・支援者を失う形となった。759年、ナルボンヌ守備隊(ムスリム・非ムスリムの混合)は、アンダルス部隊を粛清した後に城門を開き、フランク軍に降伏した。これは直前にピピン3世がゴート人の法や自治の容認を約束し、セプティマニアのゴート人貴族が彼への忠誠に傾いたことを受けてのものであった。
※この「ナルボンヌ降伏」の解説は、「ナルボンヌ包囲戦」の解説の一部です。
「ナルボンヌ降伏」を含む「ナルボンヌ包囲戦」の記事については、「ナルボンヌ包囲戦」の概要を参照ください。
- ナルボンヌ降伏のページへのリンク