カエサル死後
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「プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の記事における「カエサル死後」の解説
イサウリクスは紀元前44年の夏にローマに戻ったが、このときまでに父が死去し、またカエサルが暗殺されていた。二つの派閥の間で激しい政治闘争が勃発していたが、イサウリクスは丁度両派の中央にいたといえる。カエサル派は、彼の友人や仲間が多くいた。一方で暗殺者には彼の親族も含まれていた。マルクス・ユニウス・ブルトゥスとガイウス・カッシウス・ロンギヌスは義理の兄弟であった。紀元前44年9月初旬、イサウリクスはキケロ、ピソ・カエソニヌスと共に、カエサル暗殺者に対する報復を求めたマルクス・アントニウスを抑えた。紀元前43年1月には、キケロ、ルキウス・マルキウス・ピリップス、セルウィウス・スルピキウス・ルフスと共に、まだ19歳に過ぎなかったカエサルの後継者オクタウィアヌスに、コルネリウス法の規定よりも10歳早く高位政務官職に就任することを認め、元老院議員とするとともに財務官および法務官権限を与えた。イサウリクスが所属していたオプティマテス(門閥派)は、アントニウスに対抗するためにオクタウィアヌスを使うことを期待していた。その日の会議では、通常の問題のみを議論する予定であったが、イサウリクスがオクタウィアヌスの件を持ち出したか、あるいはその提案を最初に支持し、それが採択された。 続いてオクタウィアヌスは、アントニウスと戦う一軍を率いることとなった。3月20日、元老院はガリア・ナルボネンシス属州総督マルクス・アエミリウス・レピドゥスからの、アントニウスとの和平締結を提案する書簡を読み上げた。レピドゥスは義理の兄弟ではあったが、イサウリクスこの提案に激しく反対した。4月の終わりには、ムティナの戦い(4月21日)でアントニウスが敗北したとの報告がローマに届いたが、イサウリクスは祝勝会を開催することを提案した。同じ元老院会議で、彼はシリア属州総督で過激なカエサル派であるプブリウス・コルネリウス・ドラッベラに対する戦争を求めるロンギヌスを支持した。 しかしその後、状況は劇的に変化した。レピドゥスとガリア・キサルピナ属州総督ルキウス・ムナティウス・プランクスはアントニウスに味方し、夏にはオクタウィアヌスが補充執政官に就任した。おそらく元老院の多数派の支持を得るためであろうが、オクタウィアヌスはイサウリクスの娘との結婚を交渉した。実際には、同年末にオクタウィアヌスはアントニウス、レピドゥスと同盟を結び(第二次三頭政治)、アントニウスの連れ子であるクロディア・プルクラと結婚した。一方プルケルは、見返りとして紀元前41年に二度目の執政官に就任している。
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カエサル死後
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カエサルは紀元前47年に独裁官任期を10年延長され、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に暗殺された。クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。 紀元前42年のフィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。エフェソスにいたアルシノエ4世は紀元前41年にアントニウスによって殺された。 アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。紀元前39年には双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった。アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している。 アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。 アントニウスは紀元前34年に執政官に選出されたが初日に辞任し、アルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリスに現れると、国王アルタウァスデス2世を騙して捕虜とした。アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した。 プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという。
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