カエサル死後とは? わかりやすく解説

カエサル死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:27 UTC 版)

プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の記事における「カエサル死後」の解説

イサウリクスは紀元前44年の夏にローマ戻ったが、このときまでに父が死去し、またカエサル暗殺されていた。二つ派閥の間で激し政治闘争勃発していたが、イサウリクスは丁度両派の中央にいたといえるカエサル派は、彼の友人仲間多くいた。一方で暗殺者には彼の親族含まれていた。マルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌス義理の兄であった紀元前44年9月初旬、イサウリクスはキケロ、ピソ・カエソニヌスと共にカエサル暗殺者に対す報復求めたマルクス・アントニウス抑えた紀元前43年1月には、キケロルキウス・マルキウス・ピリップスセルウィウス・スルピキウス・ルフスと共に、まだ19歳に過ぎなかったカエサル後継者オクタウィアヌスに、コルネリウス法規定よりも10歳早く高位政務官職に就任することを認め元老院議員とするとともに財務官および法務官権限与えた。イサウリクスが所属していたオプティマテス門閥派)は、アントニウス対抗するためにオクタウィアヌスを使うことを期待していた。その日会議では、通常の問題のみを議論する予定であったが、イサウリクスがオクタウィアヌスの件を持ち出したか、あるいはその提案最初に支持し、それが採択された。 続いてオクタウィアヌスは、アントニウスと戦う一軍率いることとなった3月20日元老院ガリア・ナルボネンシス属州総督マルクス・アエミリウス・レピドゥスからの、アントニウスとの和平締結提案する書簡読み上げたレピドゥス義理の兄弟ではあったが、イサウリクスこの提案激しく反対した。4月終わりには、ムティナの戦い4月21日)でアントニウス敗北したとの報告ローマ届いたが、イサウリクスは祝勝会開催することを提案した。同じ元老院会議で、彼はシリア属州総督過激なカエサル派であるプブリウス・コルネリウス・ドラッベラに対す戦争求めロンギヌス支持した。 しかしその後状況劇的に変化したレピドゥスガリア・キサルピナ属州総督ルキウス・ムナティウス・プランクスアントニウス味方し、夏にはオクタウィアヌス補充執政官就任した。おそらく元老院多数派支持を得るためであろうが、オクタウィアヌスはイサウリクスの娘との結婚交渉した実際には、同年末にオクタウィアヌスアントニウスレピドゥス同盟を結び(第二次三頭政治)、アントニウス連れ子であるクロディア・プルクラと結婚した一方プルケルは、見返りとして紀元前41年二度目の執政官就任している。

※この「カエサル死後」の解説は、「プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の解説の一部です。
「カエサル死後」を含む「プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の記事については、「プブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官)」の概要を参照ください。


カエサル死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:01 UTC 版)

クレオパトラ7世」の記事における「カエサル死後」の解説

カエサル紀元前47年独裁官任期10年延長され、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日暗殺された。クレオパトラ希望とは裏腹にカエサリオン彼の後継者とはなりえず、カエサル実の大甥カエサルの妹の孫で姪の子)で養子ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスオクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者定めていた。クレオパトラ帰国したが、すぐにプトレマイオス14世逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。 紀元前42年フィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無くローマ東方地区勢力広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力支援した戦いブルトゥスらが敗北し三頭政治側のマルクス・アントニウスクレオパトラ7世出頭命じた。これに対してクレオパトラ7世アプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードつくってタルソス出頭した逆にアントニウスを自らの宴席招待するなどし、瞬く間アントニウス魅惑したといわれるエフェソスにいたアルシノエ4世紀元前41年アントニウスによって殺された。 アントニウスオクタウィアヌスの姉オクタウィア離婚しクレオパトラ結婚した紀元前39年には双子男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ紀元前36年にはもう一人男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスローマで評判を落とす一方だった。アントニウス場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由考えられるが、今回プトレマイオス朝領土をも獲得している。 アントニウス紀元前36年クレオパトラ支援得てパルティア遠征行ったが、惨敗喫したアントニウス紀元前34年執政官に選出されたが初日辞任しアルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリス現れると、国王アルタウァスデス2世騙して捕虜とした。アルメニア占領したアントニウス大量財宝捕虜と共にアレクサンドリア凱旋しクレオパトラとの間の子らに、東方世界分割して与えることを約束したプルタルコスによればアントニウスローマ市民人気のあったオクタウィア離縁したこと、あまりにもエジプト風染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダ利用されクレオパトラローマの敵に仕立て上げられていったという。クレオパトラカエサリオンカエサル後継者として宣伝しアントニウスもその保護者としての立場強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立決定的になると、後継者自分であることを強調し執政官としてクレオパトラという外敵排除する立場明確にしたといい、同時代記録では、豊かなエジプト女王脅威立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという。

※この「カエサル死後」の解説は、「クレオパトラ7世」の解説の一部です。
「カエサル死後」を含む「クレオパトラ7世」の記事については、「クレオパトラ7世」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「カエサル死後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カエサル死後」の関連用語

カエサル死後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カエサル死後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのプブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス (紀元前48年の執政官) (改訂履歴)、クレオパトラ7世 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS