カエサル暗殺後とは? わかりやすく解説

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カエサル暗殺後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 21:41 UTC 版)

ルキウス・スクリボニウス・リボ」の記事における「カエサル暗殺後」の解説

リボは、カエサル暗殺された後の紀元前44年春に政界に復帰した。リボは、ヒスパニア一部支配していた義理の息子セクストゥス・ポンペイとの文通再開し元老院会議にも出席するようになった紀元前43年秋、カエサル派を率いていた第二回三頭政治オクタウィアヌスアントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥス)は、リボの名をプロスクリプティオ粛清リスト)に加えたこのためリボシキリア属州支配していたセクストゥスのもとに逃げ込み、そこで有力な地位得た紀元前40年ペルシャ戦いオクタウィアヌスアントニウスの弟のルキウス勝利)の後に、オクタウィアヌスアントニウス対立が始まると、リボアントニウスセクストゥス同盟を結ぶ目的で、セクストゥスのもとに逃れていたアントニウスの母ユリアアントニウス送り届けたオクタウィアヌスはスクリボニアとの離婚申し出リボはこれに同意したセクストゥスによるイタリア海上封鎖と、それによって引き起こされ飢饉は、三頭政治側に和平必要性示したリボ双方直接会って合意するよう仲介した。結果セクストゥスアントニウスオクタウィアヌス三者会談開かれミセヌム条約締結された(紀元前39年)。この際リボ執政官とすることが約束された。またリボ孫娘、即ちセクストゥスの娘とオクタウィアヌスの甥であるマルクス・クラウディウス・マルケッルス婚約成立した。 しかし、この結婚実現しなかった。やがて、オクタウィアヌスセクストゥスの間で新たな戦争始まりセクストゥスは完全に敗北してアシア属州逃れリボもそれに従った。しかしセクストゥス絶望的な状況陥ると、リボアントニウスの側についた紀元前35年)。翌年にはアントニウスと共に執政官就任したリボその後不明である。しかし紀元前21年のアルウァル・ブレテレン(豊作求め聖職者集団)にリボの名前があり、本記事リボである可能性がある。

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カエサル暗殺後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 03:49 UTC 版)

プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官)」の記事における「カエサル暗殺後」の解説

カエサル暗殺後、誰にとっても意外であったが、ドラベッラは暗殺者達を支持した暗殺者達が「王と僭主殺した」と叫んでローマの街を駆け抜けると、ドラベッラも彼らに加わった。ドラベッラは必要な手続き完了していなかったにかかわらず執政官の服を着ていた。アッピアノスによればカピトリヌス民衆に対して演説した際には、「暗殺者達に完全に同意しているが、物理的に殺害参加しなかったのは不本意であった」ふりをしていた。翌3月16日、ドラベッラは暗殺側(共和政支持派)のブルトゥスおよびガイウス・カッシウス・ロンギヌスと、カエサル派のアントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥス交渉仲介した。結果、両派の主張に関する議論は、元老院行われることとなったその後数ヶ月の間に、ドラベッラとアントニウスは再び親密な関係を築いていった。二人執政官協力してアマティウスと言う人物対抗した。この男はガイウス・マリウスの孫であると主張しカエサルの死を嘆く貧し人々の間に多く支持者獲得していた。おそらく4月中頃にアマティウスは殺害され支持者たちも消散した。ドラベッラは、カエサル遺体火葬された場所に庶民建てていた破壊に、自らも加わった。この行動のため、キケロはドラベッラが共和政支持者加わった考えた5月1日付けアッティクス宛の書簡には、「ああ、私の素晴らしいドラベッラ!」と書いている。2日後の手でも、キケロはドラベッラを称賛し励ましている。キケロはドラベッラを友人とみなし、国家全体彼に期待寄せていると考えていた。しかし同月中にも二人の関係は再び悪化した。ドラベッラはトゥリア離婚していたが持参金返還拒否し次第アントニウス歩調合わせることが多くなった。 暗殺者達が東方属州支配権確立し始めると、アントニウス元老院にドラベッラをシリア属州総督任命させた。おそらく5年任期であった思われる。元の養父であるキケロと対立したくなかったドラベッラは、キケロレガトゥス副官)に任命し紀元前44年6月2日)、自分良し思った命令のみを実行すれば良い述べた。しかし結局キケロシリアには行かなかった。 ドラベッラも直ちシリア向かったわけではない。ドラベッラが9月2日元老院会議主催したことがわかっている。このときキケロ最初の『ピリッピカアントニウス弾劾)』演説行っている。この演説においても、9月19日の2回めの『ピリッピカ』においても、キケロはドラベッラに対して敬意持って話しており、明らかに2人執政官仲違いさせることを望んでいた。 紀元前44年秋、ロンギヌスシリア属州狙っていることが分かり、ドラベッラは任地に向かうこととなった10月25日時点ではフォルミア近郊別荘にいたが、その後すぐにシリア向かった。その途中でギリシアアルゴス立ち寄りトラキアディオメーデースの人喰い馬の子とされる馬を購入した。 この馬は並外れた大きさだった。高い首、毛色鹿毛で、太くて艶やかなたてがみ持ちその他の点でもどの馬よりも優れていたという。しかしその馬は、持ち主がは誰であろうと、その家、家族所有物すべてを完全に破滅させてしまうという運命持っていた。 アウルス・ゲッリウスアッティカ夜話』、III, 9, 4-5. この馬のことを知ったドラベッラはこれを購入したい思い、わざわざアルゴス行き10万セステルティウス支払った。ドラベッラはその後シリアラオディケイアロンギヌス敗れ戦死したアウルス・ゲッリウスによると、この馬はロンギヌスの手渡り続いてロンギヌス勝利したアントニウスの手渡ったという。そしてそのアントニウスも、結局は悲惨な最後遂げた。 ドラベッラはギリシアからマケドニアトラキア通って11月12月アシア属州入った予定では、カエサルパルティアとの戦争のためにマケドニア置いていた6個軍団がドラベッラの指揮下に入るはずであったが、アントニウスがこの軍団イタリアで戦争転用することとしたため、ドラベッラには1個軍団与えられたのみであった。このときルキウス・コルネリウス・キンナ紀元前44年法務官、またはその子紀元前32年補充執政官)が騎兵500をドラベッラに送ろうとしたが、ブルトゥス奪われた。 アシア属州総督カエサル暗殺犯の一人であるガイウス・トレボニウスであったトレボニウスはドラベッラがペルガモンスミルナに入ることを拒絶したが、食料提供した。ドラベッラは軍資金を必要としており、アシア裕福な都市から調達するつもりであったが、それを拒否されたためにいくつかの要塞攻撃した。これには失敗したものの、夜間スミルナ奇襲し、戦うことなく占領することに成功したトレボニウスはここにいたが、殺害されて首を晒された。 スミルナ占領紀元前43年1月中旬頃のことであった。このニュースは約1カ月後にローマ届き、非常に強い印象与えたクィントゥス・フフィウス・カレヌス提案で、元老院はドラベッラを敵と宣言した。その翌日キケロ第11回目の『ピリッピカ演説行いロンギヌスにドラベッラとの戦争任せることを提案したが、この提案却下された。 一方で兵士たちから「インペラトル」(勝利将軍)と呼ばれたドラベッラは、ロンギヌスとの戦争備えるために、アシア精力的に軍資金兵士、船を集めた現地都市は彼を支持しロードスユダヤも彼を支持した隷下軍隊は2個軍団増えた。しかし、アウルス・アッリエヌスがエジプトから引き連れてきた4個軍団は、ロンギヌス降伏した。この4個軍団併せロンギヌス対し、ムティナの戦いでアントニウス敗北した後、元老院正式にシリア総督任命し全軍指揮任せた。 ドラベッラはリュキア艦隊集結させ、キリキア上陸した紀元前43年5月)。そこでアンティオキア包囲したが、陥落させることはできなかった。戦闘での損失だけでなく兵士脱走のために兵力減らしていたドラベッラは、12軍団有するロンギヌス接近を知ると、ラオディケイア退却した。この都市カエサル派を支持しており、半島位置していたので、防御が容易であったロンギヌスははラオディケイア周囲に壁を築いて包囲したこの間に2回の海戦があり、最初引き分けとなったが、2回めでドラベッラは敗北した。ドラベッラがエジプト女王クレオパトラ救援求めたことが知られている。古代資料には、クレオパトラ救援艦隊を送ることができたとするものも、向かい風のために到着遅れたとするものもある。ロンギヌスラオディケイア城門守っていたケントゥリオ百人隊長)達を買収し、街に突入した。これを知ったドラベッラは、護衛一人自身を殺すように命じたロンギヌス軍のレガトゥス副司令官)の一人であったプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルからキケロ宛てた手紙日付から、ドラベッラが死去したのは紀元前43年6月2日以前であったことが分かるにも関わらずオクタウィアヌス同年8月19日にドラベッラを元老院復帰させている。おそらくドラベッラの死に関す情報は、長い間ローマに届かなかったのであろう

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