カエサル暗殺後
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「ルキウス・スクリボニウス・リボ」の記事における「カエサル暗殺後」の解説
リボは、カエサルが暗殺された後の紀元前44年春に政界に復帰した。リボは、ヒスパニアの一部を支配していた義理の息子セクストゥス・ポンペイとの文通を再開し、元老院会議にも出席するようになった。紀元前43年秋、カエサル派を率いていた第二回三頭政治(オクタウィアヌス、アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥス)は、リボの名をプロスクリプティオ(粛清リスト)に加えた。このため、リボはシキリア属州を支配していたセクストゥスのもとに逃げ込み、そこで有力な地位を得た。紀元前40年、ペルシャの戦い(オクタウィアヌスがアントニウスの弟のルキウスに勝利)の後に、オクタウィアヌスとアントニウスの対立が始まると、リボはアントニウスとセクストゥスの同盟を結ぶ目的で、セクストゥスのもとに逃れていたアントニウスの母ユリアをアントニウスに送り届けた。オクタウィアヌスはスクリボニアとの離婚を申し出、リボはこれに同意した。 セクストゥスによるイタリアの海上封鎖と、それによって引き起こされた飢饉は、三頭政治側に和平の必要性を示した。リボは双方が直接会って合意するよう仲介した。結果、セクストゥス、アントニウス、オクタウィアヌスの三者会談が開かれミセヌム条約が締結された(紀元前39年)。この際にリボを執政官とすることが約束された。またリボの孫娘、即ちセクストゥスの娘とオクタウィアヌスの甥であるマルクス・クラウディウス・マルケッルス の婚約が成立した。 しかし、この結婚は実現しなかった。やがて、オクタウィアヌスとセクストゥスの間で新たな戦争が始まり、セクストゥスは完全に敗北してアシア属州に逃れ、リボもそれに従った。しかしセクストゥスが絶望的な状況に陥ると、リボはアントニウスの側についた(紀元前35年)。翌年にはアントニウスと共に、執政官に就任した。 リボのその後は不明である。しかし紀元前21年のアルウァル・ブレテレン(豊作を求める聖職者の集団)にリボの名前があり、本記事のリボである可能性がある。
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カエサル暗殺後
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「プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官)」の記事における「カエサル暗殺後」の解説
カエサルの暗殺後、誰にとっても意外であったが、ドラベッラは暗殺者達を支持した。暗殺者達が「王と僭主を殺した」と叫んでローマの街を駆け抜けると、ドラベッラも彼らに加わった。ドラベッラは必要な手続きが完了していなかったにもかかわらず、執政官の服を着ていた。アッピアノスによれば、カピトリヌスで民衆に対して演説した際には、「暗殺者達に完全に同意しているが、物理的には殺害に参加しなかったのは不本意であった」ふりをしていた。翌3月16日、ドラベッラは暗殺側(共和政支持派)のブルトゥスおよびガイウス・カッシウス・ロンギヌスと、カエサル派のアントニウスとマルクス・アエミリウス・レピドゥスの交渉を仲介した。結果、両派の主張に関する議論は、元老院で行われることとなった。 その後数ヶ月の間に、ドラベッラとアントニウスは再び親密な関係を築いていった。二人の執政官は協力してアマティウスと言う人物に対抗した。この男はガイウス・マリウスの孫であると主張し、カエサルの死を嘆く貧しい人々の間に多くの支持者を獲得していた。おそらく4月の中頃にアマティウスは殺害され、支持者たちも消散した。ドラベッラは、カエサルの遺体が火葬された場所に庶民が建てていた柱の破壊に、自らも加わった。この行動のため、キケロはドラベッラが共和政支持者に加わったと考えた。5月1日付けのアッティクス宛の書簡には、「ああ、私の素晴らしいドラベッラ!」と書いている。2日後の手紙でも、キケロはドラベッラを称賛し、励ましている。キケロはドラベッラを友人とみなし、国家全体が彼に期待を寄せていると考えていた。しかし同月中にも、二人の関係は再び悪化した。ドラベッラはトゥリアと離婚していたが持参金の返還を拒否し、次第にアントニウスと歩調を合わせることが多くなった。 暗殺者達が東方属州の支配権を確立し始めると、アントニウスは元老院にドラベッラをシリア属州総督に任命させた。おそらく5年の任期であったと思われる。元の養父であるキケロと対立したくなかったドラベッラは、キケロをレガトゥス(副官)に任命し(紀元前44年6月2日)、自分が良しと思った命令のみを実行すれば良いと述べた。しかし結局キケロはシリアには行かなかった。 ドラベッラも直ちにシリアに向かったわけではない。ドラベッラが9月2日の元老院会議を主催したことがわかっている。このときキケロは最初の『ピリッピカ(アントニウス弾劾)』演説を行っている。この演説においても、9月19日の2回めの『ピリッピカ』においても、キケロはドラベッラに対しては敬意を持って話しており、明らかに2人の執政官を仲違いさせることを望んでいた。 紀元前44年秋、ロンギヌスがシリア属州を狙っていることが分かり、ドラベッラは任地に向かうこととなった。10月25日の時点ではフォルミア近郊の別荘にいたが、その後すぐにシリアへ向かった。その途中でギリシアのアルゴスに立ち寄り、トラキアのディオメーデースの人喰い馬の子孫とされる馬を購入した。 この馬は並外れた大きさだった。高い首、毛色は鹿毛で、太くて艶やかなたてがみを持ち、その他の点でもどの馬よりも優れていたという。しかしその馬は、持ち主がは誰であろうと、その家、家族、所有物すべてを完全に破滅させてしまうという運命を持っていた。 アウルス・ゲッリウス『アッティカ夜話』、III, 9, 4-5. この馬のことを知ったドラベッラはこれを購入したいと思い、わざわざアルゴスに行き、10万セステルティウスを支払った。ドラベッラはその後シリアのラオディケイアでロンギヌスに敗れ、戦死した。アウルス・ゲッリウスによると、この馬はロンギヌスの手に渡り、続いてロンギヌスに勝利したアントニウスの手に渡ったという。そしてそのアントニウスも、結局は悲惨な最後を遂げた。 ドラベッラはギリシアからマケドニア、トラキアを通って、11月か12月にアシア属州に入った。予定では、カエサルがパルティアとの戦争のためにマケドニアに置いていた6個軍団がドラベッラの指揮下に入るはずであったが、アントニウスがこの軍団をイタリアでの戦争に転用することとしたため、ドラベッラには1個軍団が与えられたのみであった。このときルキウス・コルネリウス・キンナ(紀元前44年法務官、またはその子の紀元前32年補充執政官)が騎兵500をドラベッラに送ろうとしたが、ブルトゥスに奪われた。 アシア属州総督はカエサル暗殺犯の一人であるガイウス・トレボニウスであった。トレボニウスはドラベッラがペルガモンとスミルナに入ることを拒絶したが、食料は提供した。ドラベッラは軍資金を必要としており、アシアの裕福な都市から調達するつもりであったが、それを拒否されたためにいくつかの要塞を攻撃した。これには失敗したものの、夜間にスミルナを奇襲し、戦うことなく占領することに成功した。トレボニウスはここにいたが、殺害されて首を晒された。 スミルナの占領は紀元前43年1月中旬頃のことであった。このニュースは約1カ月後にローマに届き、非常に強い印象を与えた。クィントゥス・フフィウス・カレヌスの提案で、元老院はドラベッラを敵と宣言した。その翌日、キケロは第11回目の『ピリッピカ』演説を行い、ロンギヌスにドラベッラとの戦争を任せることを提案したが、この提案は却下された。 一方で兵士たちから「インペラトル」(勝利将軍)と呼ばれたドラベッラは、ロンギヌスとの戦争に備えるために、アシアで精力的に軍資金や兵士、船を集めた。現地の都市は彼を支持し、ロードスやユダヤも彼を支持した。隷下の軍隊は2個軍団に増えた。しかし、アウルス・アッリエヌスがエジプトから引き連れてきた4個軍団は、ロンギヌスに降伏した。この4個軍団を併せたロンギヌスに対し、ムティナの戦いでアントニウスが敗北した後、元老院は正式にシリア総督に任命し、全軍の指揮を任せた。 ドラベッラはリュキアに艦隊を集結させ、キリキアに上陸した(紀元前43年5月)。そこでアンティオキアを包囲したが、陥落させることはできなかった。戦闘での損失だけでなく兵士の脱走のために兵力を減らしていたドラベッラは、12個軍団を有するロンギヌスの接近を知ると、ラオディケイアに退却した。この都市はカエサル派を支持しており、半島に位置していたので、防御が容易であった。ロンギヌスははラオディケイアの周囲に壁を築いて包囲した。この間に2回の海戦があり、最初は引き分けとなったが、2回めでドラベッラは敗北した。ドラベッラがエジプト女王クレオパトラに救援を求めたことが知られている。古代資料には、クレオパトラは救援艦隊を送ることができたとするものも、向かい風のために到着が遅れたとするものもある。ロンギヌスはラオディケイアの城門を守っていたケントゥリオ(百人隊長)達を買収し、街に突入した。これを知ったドラベッラは、護衛の一人に自身を殺すように命じた。 ロンギヌス軍のレガトゥス(副司令官)の一人であったプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルからキケロに宛てた手紙の日付から、ドラベッラが死去したのは紀元前43年6月2日以前であったことが分かる。にも関わらず、オクタウィアヌスは同年8月19日にドラベッラを元老院に復帰させている。おそらくドラベッラの死に関する情報は、長い間ローマに届かなかったのであろう。
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