アントニウス弾劾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:53 UTC 版)
アントニウスは念願のパルティア遠征を実行に移す。しかし結果は惨敗に終わり、エジプトに戻った司令官としての彼のイメージは大きく損なわれた。また前述のように、オクタウィアヌスの支援は2,000人に過ぎなかった。クレオパトラはアントニウスの軍隊を再建できるほどの財力を持っており、これを好機として、クレオパトラと親密であったアントニウスは妻オクタウィアを一方的に離縁する。しかし、この一件はオクタウィアヌスにアントニウス攻撃の格好の口実を与えた。 オクタウィアヌスはアントニウスを弾劾した。アントニウスはエジプト人と公式に結婚し、ローマ人の妻である姉を見捨て、ローマ人以下になったと演説した。アントニウスがローマ人としての振る舞いを正さない限り、このローマの内乱は終わらないと非難した。しかし、アントニウスはこれを拒絶、それどころかローマ人の神経を逆なでするようなことを繰り返す。 紀元前34年、アントニウス配下のローマ軍がアルメニア王国を攻撃、国王アルタウァスデス2世を捕虜とした。アントニウスはアルメニア遠征の成功によりアレクサンドリアで凱旋式を行ったが、彼はクレオパトラとの実子アレクサンデル・ヘリオスを王に据えたほか、妻となったクレオパトラにエジプト女王の称号を授けるなどした。オクタウィアヌスはこれを政治的に利用して、アントニウスはローマ人をないがしろにすると民衆および元老院を扇動、アントニウスをローマ社会から孤立させることに成功する。 紀元前33年1月1日、この年の執政官となったオクタウィアヌスは、元老院にてアントニウスとクレオパトラへの宣戦布告の決議案を提出する。しかし一部の元老院議員は、彼が行ってきたアントニウス非難を政治的なプロパガンダとしか見ておらず、アントニウスの告発の根拠を求める。これに応じたオクタウィアヌスは、ウェスタの巫女からアントニウスの遺書を奪い、その封印を開いた。 アントニウスの遺書には、ローマの征服した地域はアントニウスの子に受け継がれるべきこと、アントニウスの墓はアレクサンドリアに立てられ、クレオパトラと共に葬られるべきことが書かれていた。これを受けて元老院もアントニウスを見限り、紀元前32年末にプトレマイオス朝に宣戦布告した。
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