アントニウスの退却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 16:08 UTC 版)
「ムティナの戦い (紀元前43年)」の記事における「アントニウスの退却」の解説
ムティナの戦いでは、両勢力ともに明確な勝利を得られなかった。アントニウスは数の上で圧倒的に劣っていたものの、殲滅を免れ、双方ともに同程度の膨大な犠牲者を出した。戦闘を終えた日の夜、アントニウスは軍議を開いた。麾下の指揮官たちは騎兵力の優越とデキムス・ブルトゥス陣営の疲弊をたのんでさらに敵を攻撃するよう主張したものの、アントニウスはこれ以上の抵抗は無意味という判断を下した。 おそらくアントニウスは、ヒルティウスが死んだことや、オクタウィアヌスの手元に残った軍団が脆弱になっていることを知らなかった。彼は敵軍が再び自分の陣営に攻め寄せてくることを恐れていた。アントニウスはかつてユリウス・カエサルがゲルゴウィアの戦いで敗れた時の策にならって包囲を諦め、ピケヌムから来るウェンティディウス・バッススの援軍と合流することにした。指揮下の軍団を再編したアントニウスは、カエサル派でガリア・ナルボネンシスにいる将軍マルクス・アエミリウス・レピドゥスやガリア・コマタにいるルキウス・ムナティウス・プランクスらとも合流すべく、アルプス山脈へ向かうという計画を立てた。決断を下した後のアントニウスの行動は素早かった。戦闘後の夜のうちに彼はバッススへ使いを出し、指揮下の3個軍団を率いて直ちにアペニン山脈を越えてくるよう命じた。4月22日、アントニウスは残存兵すべてを率いてムティナ包囲を引き払い撤退した。エミリア街道を進んだアントニウス軍は、数日のうちにさしたる障害もなくパルマ、プラケンティアを抜けた。彼の敵たちはムティナに取り残され、2日間の猶予をアントニウスに与えることになった。トルトーナまで来たアントニウスは南へ反転することにし、4個軍団を率いてアペニン山脈を越えた。そしてリグリア沿岸、ジェノヴァの西方にあたるウァダ・サバティアに至り、5月3日にウェンティディウス・バッススの3個軍団と合流した。このアントニウスの副官は、山を越えてリグリア海岸に至るときに一切妨害を受けなかった。アントニウスのムティナ脱出と軍勢の合流、立て直しは成功裏に終わった。
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