アントニウス派の武装蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:53 UTC 版)
「アウグストゥス」の記事における「アントニウス派の武装蜂起」の解説
詳細は「ペルシアの戦い」を参照 ルキウスと手を組んだアントニウスの妻フルウィラは、イタリア本国在住の兵士と結託、8個軍団を編成してオクタウィアヌスへ攻撃をしかけようとする。しかし、彼らの兵士の給付金は三頭政治の3人の管轄である以上、この武装蜂起自体がリスクの高い賭けであった。ルキウス側はすぐに資金が困難となり、即座にペルシア(現ペルージャ)でオクタウィアヌスに包囲される。結果、ルキウス・アントニウスは紀元前40年初頭に降伏、フルウィラは東方へと亡命した。この敵対行動をオクタウィアヌスは許さず、ルキウスと結託した元老院議員と騎士階級300人を処刑した。この処刑は汚点となり、後の詩人セクストゥス・プロペルティウスに批判されている。 同年、オクタウィアヌスはセクストゥス・ポンペイウスの親族スクリボニア(英語版)と再婚した。しかし後に、スクリボニアの性格に耐えきれず、またセクストゥスとの間が険悪化したため、翌年に唯一の実子であるユリアが誕生すると同時に離婚した。そして紀元前38年、健康で聡明なリウィア・ドルシッラと再々婚した。これは恋愛結婚あるいは略奪婚といわれ、オクタウィアヌスは彼女の夫ティベリウス・クラウディウス・ネロに直談判をして離婚させリウィアを娶ったとされる。また、リウィアは連れ子ティベリウスの他に夫の子を妊娠中であったため、紀元前38年1月14日に大ドルススを出産した後に夫と離婚し、1月17日に結婚式を挙げた。 対するアントニウスは、エジプト滞在中にクレオパトラと関係を深め、後に2人の間にはアレクサンデル・ヘリオス(英語版)、クレオパトラ・セレネ、プトレマイオス・ピラデルプス(英語版)が生まれる。 アントニウスはルキウスの反乱に呼応して、紀元前40年にエジプトからイタリアへ遠征、ブルンディシウムを包囲する。しかしこのような内紛はオクタウィアヌス、アントニウス双方の兵士にも耐えがたく、カエサル配下であったケントゥリオたちは相次ぐ戦争への従軍を拒否した。また、先の武装蜂起を起こした1人であったフルウィラは同年死去、妻の死を見取れなかったアントニウスは落胆したこともあり、秋になると2人は再び盟約を結んだ(ペルシアの戦い(英語版))。 この盟約でそれぞれの支配地域が再確認され、アントニウスは東方の属州、レピドゥスは北アフリカ、そしてオクタウィアヌスはイタリア半島以西となった。先の紛争では困難な状況に陥ったオクタウィアヌスであったが、別の視点から見ればイタリア半島は軍団兵の募集が容易で、東方にいるアントニウスの方が不利であった。さらにオクタウィアヌスは盟約を確固とするために、姉である小オクタウィアと妻を失ったばかりのアントニウスを結婚させた。後にこの2人の間には大アントニアと小アントニアが生まれる。
※この「アントニウス派の武装蜂起」の解説は、「アウグストゥス」の解説の一部です。
「アントニウス派の武装蜂起」を含む「アウグストゥス」の記事については、「アウグストゥス」の概要を参照ください。
- アントニウス派の武装蜂起のページへのリンク