アントニウス死後のアントニウス家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:42 UTC 版)
「マルクス・アントニウス」の記事における「アントニウス死後のアントニウス家」の解説
アントニウスの死から約10日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言しており、オクタウィアヌスはそれを認めた。 アントニウスの子供の内、クレオパトラ・セレネなどの女子は長生きし、クレオパトラ・セレネはマウレタニア王ユバ2世と結婚した。一方で男子に関しては義理の息子に当る(実の息子とする説もある)カエサリオンと、フルウィアとの長男マルクス・アントニウス・アンテュッルス(英語版)(Marcus Antonius Antyllus)はオクタウィアヌスに殺害され、アレクサンデル・ヘリオス(英語版)やプトレマイオス・フィラデルフォス(英語版)はアントニウスの死から数年も立たない内に病死した。フルウィアとの次男・ユッルス・アントニウスはアウグストゥスの義理の甥として重用され執政官・アジア属州総督にまで登ったが、アウグストゥスの娘・ユリアとの密通により自死を強いられた。カリグラ、クラウディウス、ネロといった皇帝はアントニウスの血筋を引いている。
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