アントニウスの攻撃計画
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「フォルム・ガッロルムの戦い」の記事における「アントニウスの攻撃計画」の解説
紀元前43年3月前半、ヒルティウスとオクタウィアヌスはエミリア街道を通ってボノニア(現ボローニャ)に到着した。アントニウスはさらに後退する一方で、ムティナの包囲を一層強化し、デキムス・ブルトゥスを封じ込めた。実のところ、ヒルティウスもオクタウィアヌスも短期決戦を求めていなかった。彼らの下には、カエサル子飼いでアントニウスを見捨ててオクタウィアヌスのもとに参じた二個軍団と、オクタウィアヌスがカンパニアで行った再招集の呼びかけに応じて集まった三個古参兵軍団がいた。さらにもう一人の執政官であるパンサが1月に招集して瞬く間に編成を終えていた四個新兵軍団が、3月19日にローマを出発してカッシア街道を進んでいた。 この状況で、ヒルティウス・オクタウィアヌス軍とパンサ軍が合流することを恐れたアントニウスは、主導権を握ってすぐに決着をつけるべく動き出した。まず彼は早期にヒルティウス・オクタウィアヌス軍を戦闘に引きずり出して勝利をおさめる計画を立てた。ムティナ包囲に必要なだけの部隊を残し、アントニウスは自軍の大部分、四個古参兵軍団と大規模な騎兵隊を率いて、次々とヒルティウスやオクタウィアヌスの陣営に小競り合いを仕掛けた。しかし2人は陣営を離れようとせず、パンサの到着を待ち続けた。 そこでアントニウスは、戦略を切り替えた。パンサの軍団がボノニアからエミリア街道を進んでくるという情報を斥候から受け取ったアントニウスは、自身に従う古参兵たちならパンサの新兵軍団を楽々と攻撃し壊滅させられると考えた。また南方からは、アントニウスの有能な副官プブリウス・ウェンティディウス・バッススが、ピケヌムにいたカエサルの古参兵たち3個軍団を率いて北上してきており、アントニウスはこの軍団も味方に数えていた。アントニウスは弟のルキウス・アントニウスにデキムス・ブルトゥス監視をまかせ、ヒルティウスとオクタウィアヌスの陣営に陽動攻撃を仕掛けつつ、最精鋭部隊を率いて夜陰に紛れパンサ軍に迫った。 しかしパンサ軍が進軍してくるだろうフォルム・ガッロルム付近の地形は平坦でなく沼地がちで、アントニウスは麾下の精鋭騎兵隊を投入できなかった。代わりに彼は、第2軍団ガッリカと第35軍団を沼地へ送り出し、自身の近衛大隊とマルクス・ユニウス・シラヌスの近衛大隊をエミリア街道沿いの沼地に配置した。軍団兵たちは街道が最も狭くなっている部分の脇の葦原に身を隠した。騎兵や軽歩兵の部隊はエミリア街道を進んで囮となり、パンサ軍を罠に引き込む役目を担った。 オクタウィアヌスとヒルティウスは、パンサ軍と合流してからアントニウスと戦う予定であった。パンサの4個軍団が近づいているという報を受けた彼らは、精力的な将軍デキムス・カルフレヌス率いるカエサルの古参兵軍団と共に、オクタウィアヌス、ヒルティウス自身の近衛大隊を使って、カエサル暗殺者の一人セルウィウス・スルピキウス・ガルバを攻撃した。カルフレヌスとガルバは夜陰の中でエミリア街道を東に向かい、フォルム・ガッロルムを通過した。4月14日夜、パンサとカルフレヌスは合流に成功し、夜明けに進軍を始めた。彼らが率いるは、好戦的なマルティア軍団、5個新兵大隊、オクタウィアヌスとヒルティウスの近衛隊である。彼らがフォルム・ガッロルムに差し掛かった時、両脇の沼地に敵の痕跡が見つかり、前方にはアントニウスの近衛大隊が街道を塞いで待ち構えていた。
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