ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立
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「古代イスラエル」の記事における「ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立」の解説
詳細は「ヘロデ朝」を参照 ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。 サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。 紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。 ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマのシリア属州の一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロスであり、ユリウス・カエサルからも地区統治を委任された。紀元前43年にアンティパトロスが暗殺され、息子ファサエロスとヘロデが後継となってからも親ローマ路線を取った。カエサル暗殺後はガイウス・カッシウス・ロンギヌスへ味方し、フィリッピの戦いでカッシウスらが敗北した後はマルクス・アントニウス、アクティウムの海戦でアントニウスが敗北した後はアウグストゥスへ従った。 紀元前40年、先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とファサエロスを捕らえると、ヘロデは辛くも脱出。ローマにわたって支援を要請した。 ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年に捕虜となったアンティゴノスが処刑されハスモン朝が滅亡し、ヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立した。大王と称されたヘロデは純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。 猜疑心にとりつかれたヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治した。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。
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