ローマへの帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:16 UTC 版)
「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事における「ローマへの帰還」の解説
紀元前188年、マンリウスは軍と莫大な戦利品と共に、ローマに向かった。10人の特別委員も彼に従った。ヘレスポント海峡に到着したときに、マンリウスはガラティアの処置を決定した。ガラティア人は「武装して国の周りを徘徊するという風習を止めなければならない」とされた。大量の戦利品をもったローマ軍は、海峡の反対側に渡り、トラキアを通過した。この行軍の途中に、ローマの軍列の大きさに誘惑されて現地の部族が何度も攻撃をかけてきたため、これを撃退しなければならなかった。この戦闘の一つで、10人委員会の一人で紀元前193年の執政官であったクィントゥス・ミヌキウス・テルムスが戦死している。ウルソ達がイリュリアのアポロニアに到着した時点で、季節はすでに冬になっていた。このため、ローマ軍はこの地で冬営に入った。この季節にアドリア海を渡るのは非常に危険だったからである。 翌年春、ウルソはブルンディシウム(現在のブリンディジ)に上陸し、ローマに進んだ。4月の終わりか5月の初めにはベロナに到着し、元老院に対して凱旋式の実施を求めた。しかし、10人委員の多くはこれに反対した - リウィウスは反対者としてルキウス・フリウス・プルプレオ(ウルソの個人的な政敵)とルキウス・アエミリウス・パウルス(後のマケドニクス) の名前をあげている。委員達は、ウルソが当初の合意に反してアンティオコスを捕らえようとしたこと、ガラティアに対する戦争を勝手に始めたこと、ペルガモンの利益になるように働いたこと、トラキアで有効な反撃ができなかったこと、を理由に訴えた。古代の歴史家は、両者の裁判での演説を引用しているが、F. Münzerは原文の断片が残っていたのだろうと考えている。この裁判は軍を率いて出征した執政官の現地での権限に関する問題であった。 委員達は、この年の執政官の一人であるマルクス・アエミリウス・レピドゥスの支持を得た。レピドゥスはマルクス・フルウィウス・ノビリオルの政敵であり、従ってウルソの政敵でもあった。にも関わらず、元老院はウルソが凱旋式を実施することを認めた。ウルソの凱旋式では、212個の金の花冠、その他の多くの貴重な品々が街路を運ばれていった。ローマ人がこのように豪華な品々を見たのは始めてであった。
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