オリエント征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)
「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「オリエント征服」の解説
紀元前64年、ポンペイウスは南下してシリアへと行軍し、わずかな領土も持っていなかったセレウコス朝のアンティオコス13世を退位させて、シリアをローマ属州(シリア属州)とした(アンティオコス13世の後継としてフィリッポス2世が名乗りを挙げたものの、紀元前63年に潰された)。 紀元前63年、ポンペイウスはさらに南下して、フェニキア及びシリアの主要な都市を抑えた後、ユダヤへと進軍した。当時のユダヤはハスモン朝のヒルカノス2世とアリストブロス2世の兄弟が王位・大祭司職を巡って争っている最中で、両勢力は競ってポンペイウスを引入れようと接近した。しかし、アリストブロス2世がポンペイウスを侮る態度を示したことから、ポンペイウスはヒルカノス2世を支援することを決め、ポンペイウスとヒルカノス2世の連合軍はアリストブロス2世が守るエルサレムを包囲した(エルサレム攻囲戦)。アリストブロス2世派の頑強な抵抗とエルサレムの堅牢な守りの前にローマ軍は苦戦を強いられたが、3ヵ月後の包囲戦の末に陥落させ、アリストブロス2世を捕虜とした。なお、ポンペイウスはアリストブロス2世をローマへ連行したが、アリストブロス2世は後に逃亡、ローマに対する反乱を再三に渡り首謀者として起こすこととなる。 エルサレム陥落の際にポンペイウスはローマ人と違って物理的な像が無いことを確かめるため、ユダヤ教の神殿内の聖所へ立ち入ったが、純金製の燭台やランプなどの神殿内の財宝には手を付けず、占領の翌日からユダヤ教の儀式を行うことを許可した。ポンペイウスはヒルカノス2世を大祭司に即位させてエルサレムを治めさせると、近隣のサマリアやガザなどを占領した。 紀元前63年、エリコに駐留していたポンペイウスはミトリダテス6世が自殺したことを知った。ポンペイウスは息子のファルナケス2世をポントス王に任じ、長年にわたるローマの敵であったミトリダテス6世の遺体を故国・ポントス王国の首都シノーペ(現:スィノプ)へ埋葬させた。これらの措置を終えたポンペイウスは配下の武将であるマルクス・アエミリウス・スカウルス(en)に統治を任せて、ローマへの帰還の途に着いた。
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