トミスでの日々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:06 UTC 版)
配流の身にあってオウィディウスは、『悲しみの歌』と『黒海からの手紙』という2つの詩集を書き、嘆きと後悔を切々と歌っている。ローマの暦を詠った『祭暦』は1月から6月までを収録した第1巻のみが伝わるが、これはローマから遠く離れたトミスへの配流によりオウィディウスが蔵書を手にとることができなくなったため、これ以上の創作を断念せざるを得なかったものと考えられている。 追放の身の絶望やローマへの帰還を切望する思いのたけを表現した一連の詩を集めた『悲しみの歌』五巻本は、西暦9年から12年の間に詠われた。故国にいる敵を呪うエレギーア『イービス』もちょうど同じころに詠われた。『黒海からの手紙』はローマにいる友人たちに宛てた書簡の体裁をとり、追放処分を解いてもらえるよう各方面への働きかけを頼む内容となっている。おそらくは最後の作品であり、はじめの三巻までが紀元13年に公刊されたのち、四巻目が14年から16年までの間に公刊された。追放中の詩は個人的な感情を詠い、心に切々と訴えかけるようなものが特に多い。『悲しみの歌』ではトミスの原住民のことを「野蛮人」と呼んで恐れているのに対し、『黒海からの手紙』では彼らと仲良くなり、彼らの言語で詩を詠んだことを綴っている。 それでもまだ、オウィディウスはローマに思い焦がれていた。彼の三人目の妻にも一目会いたいと願い、妻に宛てて多くの詩を詠んだ。黒海のほとりから詠まれた詩の宛先は、アウグストゥス帝のものもいくつかあるが、ローマにいる友人たちや自分自身に宛てたものもある。ときには詩作品それ自体に宛てて、追放の身の孤独や、いつかは帰還できるという望みを表現するものもある。 オウィディウスは西暦紀元17年か18年に亡くなった。『祭暦』が没後に出版されたと見られることから、最晩年は『祭暦』の校訂に時間をかけて取り組んでいたと考えられている。
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