トミスラヴ即位前後のクロアチアの対外関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/28 03:10 UTC 版)
「トミスラヴ (クロアチア王)」の記事における「トミスラヴ即位前後のクロアチアの対外関係」の解説
9世紀後半から10世紀前半にかけてカルパチア盆地を征服した(en)マジャール人(ハンガリー人)は、間を入れずに領土の拡大に着手した。マジャール人は名目上フランク王国の宗主権下に置かれていたパンノニア公国に特に強い圧力をかけ、パンノニア公ブラスラヴ(en)を殺害する。クロアチアもマジャール人の攻撃に晒されるが、マジャール人はクロアチアを征服事業の最終的な目的地に定めていなかった。 『ドゥクリャ司祭の年代記』(en)には、13年におよぶトミスラヴ時代のクロアチアはマジャール人との戦闘で多くの勝利を収めたことが記されている。一方で14世紀のヴェネツィア共和国の指導者アンドレア・ダンドロと12世紀のハンガリー王ベーラ3世の公証人は当時のハンガリーがクロアチアに勝利を収めたことを述べている。クロアチアは北方の国境線の維持に成功しただけでなく、崩壊したパンノニア公国の一部に進出し、パンノニア公国のかつての首都シサクなどの都市を獲得する。しかし、シサク北部の平原地帯をマジャール人の騎兵隊から防衛することは難しく、Ljudevitの治世からシサクの改築が進められ、堅牢な要塞に改築されていく。サヴァ川とドラーヴァ川の間の空白地帯はアドリア海沿岸部に広がるクロアチアとハンガリーいずれの支配領域からも外れており、パンノニア公国の崩壊後にどちらの国も空白地帯の支配を強化することはできなかった。 他方、クロアチアの東ではブルガリア帝国が勢力を拡大していた。ブルガリアのクニャズ(君主)・ボリス1世とクロアチア公トルピミル1世の間に起きた戦争が終結した後、クロアチアとブルガリアの関係はおおむね良好だった。ローマからブルガリアに向かう教皇特使(英語版)は定期的にクロアチアを通過し、この地で保護を受けていた。しかし、こうした状況は10世紀にブルガリア皇帝に即位したシメオン1世の治世に変化する。
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