カレル1世統治下の黄金時代
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「ルクセンブルク家によるボヘミア統治」の記事における「カレル1世統治下の黄金時代」の解説
ヤンは、エリシュカとの間に生まれた長子カレルをモラヴィア辺境伯として、ボヘミア統治を任せた。カレルは元はヴァーツラフという名であったが、育ての親であるフランスのシャルル4世(長身王)にちなんでシャルル(チェコ語名でカレル)という名に変えた。フランスの洗練された宮廷文化に染まったカレルは、フランス語を始めとする複数語を駆使する教養人としてプラハに戻った。 カレルは1346年に、ヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の対立王としてローマ王に擁立され、その後間もなく戦死した父王に代わってボヘミア王カレル1世として即位した。翌1347年にはルートヴィヒ4世の死去に伴い、晴れて単独の皇帝カール4世として即位した。 カレル1世は祖父や父、さらには歴代皇帝とは違ってイタリアへの介入は行わず、ボヘミアの発展に心血を注いだ。最初に行ったのが、1344年にプラハ司教座を大司教座に昇格させたことである。元来、プラハ司教はマインツ大司教の管轄下に置かれていたが、大司教への昇格の結果、独立を果たした。これに伴い、聖ヴィート大聖堂の改築が行われ、カレル1世が慣れ親しんだフランス風のゴシック様式の建物に生まれ変わった。 聖ヴィート大聖堂の改築と共に行われたのが、プラハの大改装である。1348年にその布告が発表され、新市街が次々と築かれた。その代表的な建築物が、ペーター・パーパラによって設計されたカレル橋である。同年には中欧初の総合大学であるプラハ大学(現在のプラハ・カレル大学)が設立された。 カレル1世はプラハの街を整備するばかりではなく、ボヘミアの地位も向上させた。プラハ改築の布告を出すのと同時に議会を召集し、14通の証書を出したが、その中の一つに「ボヘミア王国はドイツ王国の中で高貴な部分」と記されたのである。 カレル1世はまた、質に出されたオリジナルの王冠に代わる新たな王冠を作らせ、聖ヴィート大聖堂の聖ヴァーツラフの遺物を納めた。これが世に言う「聖ヴァーツラフの王冠」であり、カレル1世はその王冠の下でボヘミア、モラヴィア、シレジア、ラウジッツが統合されると証書に定めた。この「聖ヴァーツラフの王冠諸邦」(ボヘミア王冠領)という理念は後のボヘミア王にも引き継がれ、現代のチェコの国章にも記されている。 そして1356年に公布された「金印勅書」により、ボヘミア王は神聖ローマ皇帝を選出する7人の選帝侯の一人という地位を獲得した。ボヘミア重視のカレル1世の政策に、周辺諸国は「カレルはボヘミアにブドウやイチジクを植えている」と揶揄し非難したが、現代のチェコでは「プラハの父」と褒め称えている。 カレル1世は他方ではアヴィニョン捕囚を終わらせ、ローマ教皇のローマへの帰還にも努めてもいる。しかし、これは結果的に教会大分裂を招いた。
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