ローマの関心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:32 UTC 版)
「第二次マケドニア戦争」の記事における「ローマの関心」の解説
ローマは第二次ポエニ戦争でカルタゴに勝利したばかりであった。この時点まで、東地中海に対するローマの関心は高くはなかった。イリュリアをめぐってピリッポス5世とローマが戦った第一次マケドニア戦争では決定的な戦闘は行われず、紀元前205年のフォイニケの和約で終了した。近年のピリッポスのトラキアと小アジアでの活動も、ローマに直接的な懸念を抱かせるものではなかった。にも関わらず、ローマはロドスとトラキアの訴えを聞き入れ、ギリシアの現状を探るために3人の大使を派遣した。彼らはアテナイに到着するまで、ピリッポスとの戦争にほとんど熱意を持っていなかった。アテナイで彼らはペルガモン王アッタロス1世とロドスからの外交使節と会談した。同時にアテナイはマケドニアに対して宣戦布告し、ピリッポス5世はアッティカへ軍を送った。ローマ大使達はマケドニアの将軍とも会談を行い、ギリシア諸都市の平和を保つように促した。また、アテナイ、ロドス、ペルガモン、アエトリア同盟はローマと同盟を結んでマケドニアの影響を排除し、先の戦争でのロドスとペルガモンの損害を解決した。マケドニアの将軍はアテナイの領土から去り、ローマからの最後通告をピリッポスに手渡した。 ピリッポスは封鎖を突破して帰国していたが、ローマの最後通牒を拒否した。彼はアテナイ領への攻撃を再開し、またダーダネルス海峡周辺での新たな作戦を開始し、重要な都市であるアビドス(en)を包囲した。紀元前200年の秋、ローマ大使はピリッポスに対して、ギリシアの都市を攻撃しない、プトレマイオス朝領を簒奪しない、ロドスおよびペルガモンとの調停を行う、という内容の二度目の最後通牒を送った。もはやローマがピリッポスとの戦争の意思を固めたことは明らかであった。二度目の最後通牒を送ったのと全く同時に、ローマ軍はイリュリアに上陸していた。ピリッポスは、紀元前205年にローマと締結したフォイニケの和約への違反はないと抗議したが、無駄であった。 ポリュビオスによると、アビドスを包囲している最中にピリッポスは忍耐を無くし、アビドスに対して「総攻撃を開始するので、降伏か自決したいものは3日以内にそうせよ」とのメッセージを送った。市民達は自らの手で女性および子供を全員殺し、価値あるものは全て海に投げ捨て、男達は最後の一人まで抵抗した。この話は、ピリッポスがマケドニアの勢力を拡大するにあたって残虐行為を行ったとの評判を示すものである。
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