マケドニアの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:18 UTC 版)
「ハリカルナッソス」の記事における「マケドニアの影響」の解説
その後ハリカルナッソスを支配したピクソダロスは力を強めてきたマケドニア王国との同盟を目論み、若きアレクサンドロス3世の嫁として自身の娘を差し出す約束をしたと言われている。しかし、アレクサンドロスの父ピリッポス2世が反対し、結婚は成立しなかった。アレクサンドロス3世の東征初期の紀元前334年、マケドニア軍はハリカルナッソスでメムノン率いるペルシア軍と対峙した。要塞を攻略するため掘に細い橋をかけたが、その橋が壊れたため多数の死者が出たという。要塞を攻略できないアレクサンドロス3世は、それを包囲し続けるしかなかった(最終的にマケドニア側が勝利している)。この要塞と掘の遺跡は、今ではボドルムの観光名所となっている。 アレクサンドロス3世はハリカルナッソスの統治をサトラップを務めていたマウソロス一家、特にマウソロスの妹アダに任せた。その後間もなく、プトレマイオス1世がこの地にギュムナシオンを建てており、市民がプトレマイオス1世を称えて柱廊またはポルチコを建てた例も見つかっている。ハリカルナッソスはアレクサンドロス3世による包囲攻撃の痛手から完全には回復せず、キケロはその地をほとんど廃墟だと記している。
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